十字架のヨハネ
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十字架のヨハネ(Juan de la Cruz,1542年-1591年12月14日)は16世紀のスペインのカトリック司祭、神秘思想家。アビラのテレサと共にカルメル会の改革に取り組み、『暗夜』などすぐれたキリスト教神秘主義の著作や書簡を残した。聖公会およびカトリック教会の聖人であり、教会博士の一人。記念日は12月14日。
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[編集] 生涯
十字架のヨハネは1542年にスペインのフォンティベーロスで生まれた。本名はファン・デ・イエペス。父ゴンサーロ・デ・イエペスは裕福な織物商の息子であったが、貧しい機織少女であったカタリナ・アルバレスと恋に落ち、彼女と駆け落ち同然の結婚をしたため、一族から勘当された。貧しいながらも愛のある暮らしを始めた二人の間にはは三人の息子ルイス、フランシスコ、ヨハネが生まれた。しかし、不幸が一家を襲う。なれない貧乏生活の苦労で病気を得た父ゴンサーロはヨハネの生後まもなく世を去った。さらに貧困ゆえ、息子ルイスも病死。苦悩した母は末っ子ヨハネを死なせるのはしのびないとメディナの孤児院にあずけた。
9歳で孤児院にあずけられたヨハネは、そこで大工をはじめとするさまざまな職業教育を受けたが、いずれもものにならなかった。孤児院では仕事だけでなく、経営の維持のために物乞いのようなこともせねばならず、言語に絶する苦労があった。
17歳になってようやく病院の看護師の仕事を得たが、同時に街角で病院の維持のための献金を集めなければならなかった。やがて、ヨハネの人生に転機が訪れる。イエズス会の学校に学ぶ機会を得て、司祭になる道が開けたのである。彼はそこで生活の安定した病院つきの司祭になることをすすめられたがそれを選ばず、あえてカルメル会の修道院に入ることを望んだ。修道士となるにあたって、彼が選んだ修道名が十字架のヨハネである。
1567年、25歳の時、ヨハネはアビラのテレサと運命的な出会いをした。彼女は停滞していた女子カルメル会の改革に成功し、修道会に新たな息吹を吹き込んでいたが、ヨハネの徳の高さを認め、同志となって男子カルメル会の改革を行わないかと呼びかけたのである。
こうして上長の許しの下にヨハネはドゥルエロの地に新しい修道院を作った。これが跣足カルメル会の発祥の地となる。ヨハネはそこで意欲的に修道会の霊的刷新に乗り出すことになったが、彼の行動はまわりの修道士たちに危険視され、理解されなかった。
ピアチェンツァで行われた修道会総会で、彼の行動が厳しく弾劾されたため、1577年には同じ修道会士の手によって修道院から拉致され、トレドで幽閉される憂き目にあった。暗い小部屋での九ヶ月の幽閉生活の中で、ヨハネは霊的なインスピレーションを受けた。そして幽閉生活から開放されると、そこで得た経験を書きとめた。これが『暗夜』である。以後、神秘家として活発な著述を行うようになり、1581年には教皇グレゴリウス13世の許可を得てようやく改革カルメル会(跣足カルメル会)が認めれられるようになったが、同会においても1591年のマドリードでの会議で批判され、ペニュエラへの隠棲を余儀なくされる。まもなく病を得てウベダの修道院に送られ、1591年12月14日に49歳でこの世を去った。
彼の著作が初めて出版されたのは死後30年ほどした1618年のことであった。1675年に教皇クレメンス10世によって列福され、1726年にベネディクトゥス13世によって列聖された。
20世紀のエーディト・シュタインは晩年十字架のヨハネの研究に没頭したが、その著作の完成を見ずに強制収容所で殺害された。サルバドール・ダリは十字架のヨハネの手によるといわれる十字架の図に着想を得て『十字架の聖ヨハネのキリスト』という絵を残している。
[編集] 主な著作
- 『暗夜』
- 『カルメル山登攀』
- 『霊の賛歌』
- 『愛の生ける炎』
- 『光と愛について』
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
カテゴリ: 聖人 | キリスト教神秘思想家