千里眼事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千里眼事件(せんりがん じけん)とは、明治末の社会状況、学術状況を背景として起きた、千里眼・念写の能力を持つと称する御船千鶴子や長尾郁子らが、東京帝国大学の福来友吉や京都帝国大学の今村新吉らの一部の学者と共に巻き起こした、公開実験や真偽論争などの一連の騒動のことである。
目次 |
[編集] 御船千鶴子の出現
熊本生まれの御船千鶴子が「千里眼」能力の持ち主として注目されるようになったのは、明治42年(1909年)、23歳の時のことである。その能力を見出したとされるのは、自身が催眠術による心霊療法を行なっていた、義兄の清原猛雄であり、千鶴子は実家を出て清原家で千里眼による体内透視の「治療」を、前年より行なうようになっていた。明治30年代半ば(1900年)頃の日本では、催眠術ブームが起こり、清原や千鶴子のような民間療法を行なう民間医が多数存在した。
最初に千鶴子を取り上げたのは、明治42年8月14日付の『東京朝日新聞』である。「不思議なる透視法」として、千鶴子が、京都帝国大学の前総長であった木下広次の治療を行なったことを報じている。
実際に千鶴子の透視能力を直接に実験したのは、今村新吉である。
明治43年(1910年)2月19日、熊本を訪れた今村が、カードを用いた透視実験を行い、高い的中率を得た。
同年4月9日には、福来友吉と今村の二人で熊本を訪れ、より厳重に封印されたカードを用いて実験が行なわれたが、この時は失敗した。しかしその後、方法を変えて実験を行なうと、的中した。4月25日には、東京に戻った福来が、東京帝大内で実験報告を行い、一躍脚光を浴びるようになった。
同年9月14日には、上京した千鶴子たちと福来らによって、当代の諸科学者たち、ジャーナリストらを集めた公開実験が行なわれた。が、その結果は、試験物のスリ替え事件によって、問題の「千里眼」能力の真偽に対する答えを出せないままに、話題性だけが一人歩きする形で幕を引くこととなった。翌9月15日、9月17日に少数の関係者を集めて、千鶴子の得意な方法で行なわれた再実験では、好結果が出たが、集まった学者たちの反応も、一歩さがった立場からの冷めた論調に終始した。
その一因として、千鶴子の場合、「千里眼」による透視実験を行う際に、余人の同室を固辞し、また、襖ごしに隣室からの同伴を認めた場合でも、終始、千鶴子は背を向けた形で座り、壁や障子などに向かって実験を行なったため、問題の千鶴子の手許が、臨席者の目に触れることが無かったため、福来らの能力を信奉する立場の者たちにしても、その疑惑を払拭することができなかったことが挙げ得る。
結局、千鶴子は熊本に帰った後、明治44年(1911年)1月19日に自らの命を絶ってしまう。その死の前後に、長尾郁子の事件が報道されたことから、死後の千鶴子に関しても世間からの非難が集まることとなってしまった。
[編集] 長尾郁子の登場
長尾郁子は、香川県丸亀市の判事であった長尾與吉の夫人であり、当時40歳であった。郁子の場合、その数年前から災害等の予言が的中するということで身近な人たちから注目されるようになったという。それが、千鶴子の一連の報道を知ったことで、同様の実験を行なったところ、見事に的中したということで、福来の耳に郁子の情報が入ることとなったのである。
福来と今村が郁子に対して初めて実験を行なったのは明治43年11月12日のことである。郁子の場合、千鶴子との最大の相違点は、同席者と相対した位置で透視を行い、的中させた点である。更に、実験方法においても、千鶴子の場合とは異なった手段が用いられた。それが、福来の考案した現像前の乾板を用いるというもの、いわゆる「念写」実験の始まりである。福来は千鶴子に対しても同様の実験を試みたが、不成功に終わった。郁子の場合は、福来の予め示してあった文字を念写することに成功したため、福来らは専ら丸亀において郁子の実験を中心に活動することとなる。
明治44年1月4日、物理学者で東京帝国大学元総長の山川健次郎が同席した透視・念写実験が、丸亀の長尾宅で行なわれた。結果は、東京帝国大学物理学教室講師で、懐疑的な立場で実験に同席した藤教篤の、実験物である乾板を抜き取って実験に臨むという妨害行為のために中断してしまった。
また、同年1月12日の実験でも妨害行為があったことが報じられ、その妨害者として、長尾家に投宿し、郁子とも親密であった催眠術師・横瀬琢之の名が挙がるに及んで、郁子と横瀬の不倫疑惑というゴシップへと世間の関心は移ってしまい、やはり、肝心の「千里眼」「念写」の真偽は二の次になってしまった。そうして、同年2月26日に長尾郁子が病死することで、事件は、その真偽を科学的に明らかにすることなく、幕引きを迎えることとなった。
同様に、千鶴子が脚光を浴びた後に、日本各地に出現した「千里眼」能力者たちも、手品・ペテン師であるというレッテルを貼られ、一転して世の非難の的となってしまった。
福来は、東京帝国大学を辞職することとなり、高橋貞子や月の裏側写真で知られる三田光一といった「千里眼」能力者を用いた実験を重ねるようになるが、以後の「実験」は、千鶴子や郁子の時のような、科学的な公開実験ではなくなり、また、福来自身も、科学的な手法によって「千里眼」能力は実証し得ないといった意味の事がらを公言するようになり、『心霊と神秘世界』を出版するなどオカルティズムへの傾斜を加速度的に深めて行くこととなる。
[編集] 関連項目
[編集] 関連書
- 福来友吉 『透視と念写』 宝文館 1913年
- 小池壮彦 『心霊写真』 宝島社新書 宝島社 ISBN 4796617248
- 長山靖生 『千里眼事件 科学とオカルトの明治日本』 平凡社新書 平凡社 ISBN 4582852998
- 寺沢龍 『透視も念写も事実である 福来友吉と千里眼事件』 草思社 ISBN 4794212747