南条元続
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南条 元続(なんじょう もとつぐ、? - 天正19年(1591年))は、安土桃山時代の武将。伯耆羽衣石城主。官位は従五位下、左衛門尉、伯耆守。通称、勘兵衛。南条宗勝の子。南条元忠の父。
[編集] 来歴
天正3年(1575年)、父・宗勝の死によって家督を継ぎ、同年に毛利氏一族の吉川元春から家督および所領を安堵されている。ところが織田信長の勢力が因幡へも伸長して来るに及んで、尼子の遺臣・福山茲正の仲介で毛利氏から離れ織田氏へと気脈を通じるようになり、天正7年(1579年)にいたって毛利氏と完全に決裂した。秀吉の鳥取城攻撃の際は、羽衣石城にあって毛利氏の鳥取救援を妨害し、鳥取落城を早める一因を作った。天正10年(1582年)9月、毛利氏の猛攻を受けて羽衣石城は落城するが、天正12年(1584年)の羽柴氏と毛利氏の和睦により、八橋川以東の伯耆東3郡6万石の領有が認められ、羽衣石城に復帰した。以後は秀吉の傘下に入り、九州遠征にも加わる。後に中風を病んで政務を行えなくなったが、天正18年(1590年)の小田原の陣には自ら出向いた。
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