羽衣石城
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羽衣石城模擬天守 | |
通称 | |
城郭構造 |
連郭式山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、井戸 |
位置 |
羽衣石城(うえしじょう)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町に所在した城郭。
目次 |
[編集] 概要
- 城跡は東郷池の南、羽衣石川上流にある羽衣石山(標高372m)にあり、山陰道と東郷池に臨む東伯耆の要衝にある。南条氏歴代の本拠地で、尼子氏や毛利氏と激しい攻防を繰り返した。
- 山頂には1990年に建てられた三層の模擬天守と「羽衣石城主南条公累代碑」がある。それ以前にも、昭和6年に大阪在住の南条氏の子孫によって建てられた模擬天守があった。
- 南条氏は伝承によると当初、羽衣石城よりも奥にある十万寺集落付辺に築城を予定していたという。築城しようとしたところ予定地のそばにある「日向池」(現在は地名のみ残る)にツバメが落ち、不吉なことだと感じた貞宗が羽衣石山へと変更させたといわれている。現在、その十万寺集落の北に広大な城跡があることが分かっているが調査が行われていないため詳細は不明である。
[編集] 歴史
- 正平21年(1366年)、南条貞宗が築城。
- 大永4年(1524年)、大永の五月崩れによって落城。尼子領となり、南条宗勝は山名氏に逃れる。
- 永禄9年(1566年)、尼子氏が滅亡。南条宗勝城を奪回し、毛利氏に属す。
- 天正3年(1575年)、南条宗勝死亡により、南条元続が家督を継ぐ。
- 天正7年(1579年)、南条元続、毛利方に背き羽柴秀吉方につく。
- 天正9年(1581年)、吉川元春、馬ノ山に布陣し、子の元長に羽衣石城を攻めさせる。鳥取城を落とした羽柴秀吉軍が馬ノ山で吉川元春軍と対陣。両者共に退く。
- 天正10年(1582年)、吉川元春の大軍に攻められ、落城する。
- 天正12年(1584年)、織田氏と毛利氏の和睦が結ばれ、伯耆国東3郡が南条氏領となる。
- 天正19年(1591年)、南条元続病死し、南条元忠が家督を継ぐ。
- 慶長5年(1600年)、南条元忠は西軍について敗れ、廃城となる。
- 昭和6年(1931年)、南条氏の子孫の手により、山上に模擬天守が建てられた。
- 平成2年(1990年)、模擬天守が建て替えられ、中腹までのアクセス道が整備された。
- 平成13年(2001年)、県史跡に指定される。
[編集] 構造
標高372mの峻険な羽衣石山に多数の曲輪が設けられている。
- 本丸は山頂部に設けられ、東西に細長い長方形である。本丸の西端に模擬天守が建造されているが、天守が存在したかどうかは定かではない。
- 一段下がって本丸を取り巻くように帯曲輪が設けられており、本丸上り口には不完全ながら枡形も設けられている。帯曲輪西端にも中世の物見櫓を模した展望台が建てられている。
- 本丸を中心に放射状に広がる北方尾根と西方尾根に90余に及ぶ砦群が階段状に設けられている。東方尾根は峰伝いに攻撃されやすい弱点のため、数段の砦と堀切で防御している。しかし1582年(天正10)の吉川元春との攻防戦の際は、東方尾根からの攻撃を支えきれずに落城している。
- 城の南方面の防御は峻険な崖を利用しており、特に人工的な防御施設はない。
- 本丸への登山道としては大手口と搦手口の2本がある。大手口には「天然の塁壁」と呼ばれる高さ5mほどの崖を利用した防壁がある。大手口途中には「お茶の水井戸」と呼ばれる井戸があり、城内の水の手として利用されていたことが推測される。搦手の本丸下には「羽衣岩」という天女が羽衣を掛けたと伝えられる巨石があり、ここも砦として利用されている。
- 南条氏の居館は山腹の八幡神社上にある比較的大規模な曲輪と伝えられているが、定かでない。
- 天嶮を利用した山岳城郭であるが随所に石垣も設けられており、中世城郭から近世城郭への移行の姿をとどめている。
- 模擬天守建造に伴う試掘調査の際、本丸からは地鎮具と見られる壺、帯曲輪からは柵穴、山麓の砦群からは土師質の土器片、備前焼、白磁・青磁などが出土している。
- 付近に白石砦、河口城、田尻城、高野宮城などの出城がある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 羽衣石城(湯梨浜町サイト内)
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