南条宗勝
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南条 宗勝(なんじょう むねかつ、明応5年(1496年)?- 天正3年(1575年))は、戦国時代の武将。伯耆羽衣石城主。南条宗皓の子。名は宗元とも。官位は豊後守。元続、元清、元秋の父。
[編集] 来歴
大永4年(1524年)、尼子経久に攻められて居城・羽衣石城を追われ、因幡の山名氏の下に逃れる。1546年10月、南条宗勝は因幡山名氏の重臣である武田常信と協力し6000の兵を率い出陣。尼子方の河口城を陥れる。尼子詮久は南条宗勝の挙兵の報に接すると、新宮党の尼子国久と尼子豊久に兵6000を与えて伯耆に派遣、国久らは橋津川西岸に陣を布き、南条・武田軍と対決することとなる。
戦いは武田常信の奮戦で尼子方は劣勢になり、武田常信は尼子豊久を討ち取った。しかし国久は息子の豊久の戦死を知ると激昂し逆襲に転じた。防戦虚しくついに武田常信は討死、宗勝も敗走した。
しかし永禄9年(1566年)、毛利氏の支援を得て、ようやく所領を尼子氏の手から奪回した。羽衣石城復帰後は東伯耆3郡を押さえ、毛利方の伯耆における要を務めてきたが、天正3年(1575年)に急逝した。尾高城主・杉原盛重に毒殺されたとの説が流布されたが、巷説に過ぎない。
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