原昌胤
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原 昌胤(はら まさたね)は、日本の戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣(武田二十四将の一人)。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 1531年(享禄4年) | |||
死没 | 1575年6月29日(天正3年5月21日) | |||
別名 | 昌勝(別名) | |||
戒名 | 朝原 | |||
主君 | 武田信玄→武田勝頼 | |||
官位 | 隼人佐(隼人佑) | |||
氏族 | 原氏 | |||
父母 | 父:原昌俊 | |||
子 | 原昌栄、原昌弘、原貞胤 |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 信玄時代
享禄4年(1531年)、原昌俊の嫡男として生まれる。昌胤の原氏は原虎胤とは別の一族で、美濃土岐氏の庶流といわれる。
天文19年(1550年)に家督を継ぎ、信玄に仕えた。信玄のもとでは戦争のとき、陣形やその陣を敷くための場所を決定したり、戦況報告を行なう陣馬奉行を務め、主君の武田信玄も、陣馬の見立ては常に昌胤の進言どおりにするなど、信玄から絶大な信任を受けていたという。その功績から、譜代家老衆に列せられ、120騎持の侍大将に昇進する。
[編集] 最期
信玄死後は武田勝頼に仕えたが、独断専行の多かった勝頼とはあまり仲が良くなかったとされる。天正2年(1575年)、長篠の戦いでは織田信長の鉄砲三段並べ作戦と彼我の兵力差から敗戦を読み取り、勝頼に撤退を進言したが容れられなかったという(ただしこれは後世の俗説とされている)。そして、戦いに参加する必要の無い陣馬奉行であるにも関わらず、手勢を率いて果敢に突撃し、戦死した。享年45。
[編集] 人物
- 「人馬の見立ては隼人佑に任せておけばいい」と信玄から言われるほど、信頼が厚かったとされている。
- 甲陽軍鑑においては、「他国にて山中など道知らざる処を、隼人佑、一見ふみ分け入ること武田家中に此人一人なり」とある。
「元亀三年夏秋、遠州三河の絵図をもつて、両国険難の地、或は大河小河の出様、一村一里に渡、いくつ有、或はふけ(深田)、たまり池、萬を遠州三河牢人衆に沙汰させ、原集人・内藤修理両侍大将能聞、信玄公御前にをひて申上」(甲陽軍鑑)。
- 竜朱印状の奏者としての名が多く見えることから、武田家の軍政における地位は高かったと思われる。