反党グループ事件
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反党グループ事件(はんとうぐるーぷじけん)は、非スターリン化を進めるフルシチョフソ連共産党第一書記を、1957年党保守派幹部が解任しようとして失敗した事件である。結果、彼ら反フルシチョフ派は一括して「反党グループ」と断罪され、党役職から追放された。
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[編集] 事件の経緯
1953年3月スターリン書記長が死去すると、ソ連共産党は集団指導体制へと移行した。すなわち党幹部会はマレンコフ首相、モロトフ外相、ベリヤ内相、カガノーヴィチ副首相、ヴォロシーロフ最高会議幹部会議長、フルシチョフ筆頭書記(後に第一書記)、ブルガーニン国防相、等で構成された。
初めマレンコフがベリヤと組んで権勢を振るったが、次第に対立し、代わってフルシチョフと組んだ。しかし、1953年6月ベリヤ逮捕の後は、フルシチョフが党内に影響力を拡大してゆく。そして遂には、1955年2月にマレンコフを解任し、旧知のブルガーニンを首相に据えた。さらに1956年2月、マレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチの反対にもかかわらず、第20回党大会において反スターリン演説をおこない(スターリン批判)、党内対立が激化した。
[編集] 幹部会における解任動議
1957年6月に突如、党中央委員会幹部会が召集され、フルシチョフを解任する動議が提出された。幹部会員11名の内、7人(マレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチ、ブルガーニン、ヴォロシーロフ、ペルヴーヒン、サブーロフ)が賛成し、4人(フルシチョフ、ミコヤン、スースロフ、キリチェンコ)が反対した。
しかしフルシチョフは、第一書記は中央委員会によって選出されたのであり、解任できるのは中央委員会のみであると主張し、時間を稼いだ。この間に、ジューコフ国防相(幹部会員候補)とセーロフKGB議長の協力の下、各地の中央委員を、急ぎモスクワへと集めた。こうして、中央委員会総会の開催が決定され、フルシチョフの解任は、総会に持ち越されたのである。
[編集] 中央委員会総会
党中央委員会総会においてマレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチ等は、従来のフルシチョフの内外政策を批判した。しかし、中央委員会の大多数はフルシチョフを支持し、逆に反対派の行為を厳しく批判した。この結果、反対派は自己批判をする破目になり、まとめて「反党グループ」とされ、党役職を解任された。
[編集] その後の「反党グループ」
マレンコフは1961年共産党からも追放され、その後はカザフスタンの水力発電所所長となった。 モロトフは1957年にモンゴル大使に左遷された。 カガノーヴィチはウラル地方のセメント工場長に左遷された。 ブルガーニンは1958年3月に首相を解任され、1961年には党中央委員からも解任された。 ヴォロシーロフは許されて、1960年5月まで最高会議幹部会議長を務めた。