ラヴレンチー・ベリヤ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ(ロシア語:Лавре́нтий Па́влович Бе́рияラヴリェーンチイ・パーヴラヴィチュ・ビェーリヤ; グルジア語:ლავრენტი ბერია; ラテン文字転写の例:Lavrenty Beria, 1899年3月29日 - 1953年12月23日)はソビエト連邦の政治家。グルジア人。
しばしば「ラヴレンティ」と表記されるが、「ラヴレンチー」がより原音に近い。
目次 |
[編集] プロフィール
1899年にスフミ近郊のミヘウリにユダヤ系小作農パーヴェル・カフカハエヴィチ・ベリヤの息子として生まれる。ミヘウリの中等実業学校を出た後、1917年3月にボリシェヴィキ党(ソ連共産党の前身)に入党したとされているが、これについてはのちに捏造したもので実際には十月革命後の1919年の入党ではないかとも言われている。
1920年(1921年とも)にレーニンの創設した秘密警察のチェカに入り、グルジアやアゼルバイジャンで反革命分子の抹殺に辣腕をふるう。1922年にはチェカが改名された GPU のグルジア支部長代理に就任し、1926年には正式に支部長となった。またこの年に同じグルジアの出身であるスターリンに初めて会見して目にかけられるようになり、1931年にはグルジア共産党第一書記。さらに1934年にはソ連共産党中央委員に就任して中央政治に転じた。
大粛清の最中、スターリンは粛清の実行者であるはずの内務人民委員部(1934年 GPU はここに統合された)の長官であるニコライ・エジョフを遠ざけるようになり、かわってベリヤが1938年8月22日にエジョフの内務人民委員代理に任命され、徐々にエジョフにとってかわって粛清の指揮をとるようになる。11月25日には正式にエジョフが内務人民委員を解任されてベリヤが内務人民委員となり、エジョフやその配下の機関員たちを粛清してスターリン大粛清の総仕上げにあたった。
1941年2月には人民委員会議副議長(副首相)に就任し、独ソ戦中もこの職にあった。彼の配属下にあった部隊は前線で脱走兵の処刑やスパイの摘発などで力を奮った。クリミア・タタール人その他の対独協力の嫌疑をかけられた少数民族の強制移住を実行。また彼は悪名高いカティンの森事件の首謀者であり、シベリア抑留など外国人捕虜を収容する収容所を管轄する最高責任者でもあった。対独戦終結後の1945年7月9日にソ連邦元帥の階級を得て、翌1946年3月には党政治局員となる。その後もスターリンのもとで強制収容所の維持や原子爆弾の開発にかかわった。さらに東欧系の警察組織もベリヤの支配下に組み込まれ、ベリヤの警察権力は絶頂を迎えた。
1953年のスターリン死去後は集団指導体制に移り、首相マレンコフに次ぐ第一副首相兼内相として、ソ連の指導的地位につく(なお、一部の歴史家はベリヤがフルシチョフらと共謀し、ヨシフ・スターリンを毒殺した主なメンバーの1人だとの見解を示している)。スターリン死後は医師団陰謀事件の囚人を釈放したり、統一ドイツを主張するなど野心的な政策を実施した。しかし、マレンコフ、フルシチョフ、モロトフ等と対立し、1953年6月ジューコフ元帥の指揮する部隊により、国家反逆罪容疑で逮捕される。裁判の結果、死刑判決を受けベリヤは泣きながら助命を嘆願したとされるが、同年12月に銃殺された。
[編集] エピソード
- ベリヤにより粛清された正確な人数は現在でも把握されていない。彼の住んでいた別荘では浴槽に酸を入れ、殺した人物の遺体を跡形も無く溶かしてしまうこともあった。
- スターリンを超える冷酷な性格だったと言われているが、晩年期のスターリンとは距離を置きはじめており、スターリンの死もベリヤの陰謀ではないかという説が根強い。
- 彼自身大変な漁色家で、誘惑を断れば最後女性とその家族に身の破滅が待っていると恐れられた。暇さえあれば車でモスクワ市内を廻り、気に入った女子高生を拉致しては暴行する悪行を繰り返した。流石に苦情が出たものの、スターリンも黙認していたので被害者は泣き寝入りせざるを得なかった。被害者の一人の女性が暴行されそれを苦に自殺すると、彼女の父親は後にベリヤが政争に敗れて処刑されるさいに、自ら処刑の執行人となりたいと嘆願したが政府に「私刑は認められない」という理由で要望は聞き入れられなかった。
- 職業柄、西側の政治・文化に精通した国際人であり、スターリン死後の政治局内にあって、政治的にはむしろ穏健派であった。
ベリヤ逮捕後に押収された彼のカバンからは、赤いインクで「警戒」の文字がびっしり書き込まれた紙片が発見された。身柄を確保される直前の会議で彼への批判が行われた時に、身の危険を感じて警備隊に助けてもらおうとメモしたものらしい。
諜報活動を束ねていたベリヤはヒトラーのドイツ侵攻を読み抜けず、誤った報告しかスターリンに知らせなかった。ためにロシアは緒戦に大敗北を喫した。ベリヤは、日本にいた諜報員リヒアルト・ゾルゲの貴重な報告をにぎりつぶし、ゾルゲの処刑に見て見ぬ振りをするばかりか、彼の上司のベルジンを粛清。さらにゾルゲの家族までも抹殺したと言われている。
[編集] 家族
息子のセルゴ・ベリヤは科学者であり、「わが父ラヴレンチー・ベリヤ」(日本語には未翻訳)と私記を著した。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | ソビエト連邦の政治家 | 1899年生 | 1953年没