吉井勇
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吉井 勇(よしい いさむ、1886年(明治19年)10月8日 - 1960年(昭和35年)11月19日)は歌人、脚本家である。
[編集] 経歴
東京芝区生まれ。祖父は吉井友実。1900年4月に東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)に入学、落第したため、のちに日本中学(現・日本学園中学校・高等学校)に転校。漢学塾へ通って、『十八史略』『文章規範』などを習う。この頃『海国少年』に短歌を投稿し、一位となる。その後変転を経て、1905年には攻玉社を卒業後、胸膜炎(肋膜炎)を患って入院、鎌倉の別荘へ転地療養した際、歌作に励み、『新詩社』同人となり、『明星』に次々と歌を発表し、北原白秋とともに新進歌人として注目されるが、翌年には脱退する。
1908年早稲田大学文学部高等予科に入学する。途中政治経済科に転ずるも中退。
1909年1月、森鴎外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の三人で交替に編集に当たる。三月には戯曲「午後三時」を『スバル』に発表。坪内逍遥に認められ、続々と戯曲を発表して、脚本家としても名をあげる
1915年11月、歌集「祇園歌集」を新潮社より刊行。装幀は竹久夢二、このころから歌集の刊行が増える。
[編集] 関連書籍
- 「私の履歴書」 8巻 日本経済新聞社