吉川経安
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吉川 経安(きっかわ つねやす、1525年(大永2年) - 没年不詳)は、日本の戦国時代の武将で、安芸の戦国大名毛利氏の家臣。父は吉川経典。子に吉川経家。
吉川氏の分家である石見吉川氏の出身である。毛利元就が台頭し吉川氏本家を吸収すると、分家の経安も元就に臣従し石見国に所領を与えられ、福光城を築城した。同時に石見銀山の管理も任された。
1561年、尼子氏に属した福屋隆兼に福光城を攻撃されるも、撃退に成功する。1562年に元就が石見国の有力国人である本城常光一族を滅ぼした際には、経安は毛利家臣として上山元忠らとともに常光の居城山吹城を接収している。
石見国の所領が安定した収入を得るようになると、1574年に家督を嫡男・吉川経家に譲り隠居する。1581年、息子の吉川経家が鳥取城で、織田軍の羽柴秀吉に降伏し、自害するとその遺言状を受け取っている。没年は不明。
隠居年である1574年が没年と誤解されることが多いが、1581年の鳥取城落城の際に息子・経家の遺言状は父にも宛ててあり、益田氏の古文書でも1581年以降の生存が確認されている。尚、文禄の役終了後に小早川隆景が吉川経安に朝鮮での愚痴をこぼしたとの話も残っている。
吉川経安は上方から石工の棟梁坪内弥惣兵衛を招き、石見での石材の技術を向上させるなど産業の育成にも力を注いでいる。
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