吉田剛
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吉田 剛(よしだ たかし、1966年11月28日 - )は、昭和末期から平成期(1980年代後半-2000年代前半)のプロ野球選手(遊撃手)。ニックネームは顔が松本人志に似ていた事から「ごっつ」。デビット伊東にも顔が似ていた。
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[編集] 来歴・人物
[編集] 取手二高時代
1984年の夏の甲子園に茨城県代表・取手二高の主将として出場した吉田は、決勝戦のPL学園高校戦で桑田真澄(現・パイレーツマイナー所属)から本塁打を放ち、優勝に貢献した。
[編集] 近鉄時代
1984年秋のドラフト1位で近鉄バファローズに入団。巧みな守備でファンを魅了し、1988年~1995年にかけて大いに活躍した。しかし、中村紀洋、水口栄二、武藤孝司ら若手の台頭で出場機会が激減、主に代打、代走、守備固めで起用されることとなる。背番号は48、0、8を付けていた。
[編集] 阪神時代
2000年シーズン途中に、杉山賢人とのトレードで西川慎一とともに阪神に移籍し、この年阪神では36試合に出場し活躍した。
[編集] 桑田との対決再び
中でも7月19日の阪神-巨人戦(阪神甲子園球場)では、延長10回裏に桑田から左中間を破るサヨナラ安打を放ち、16年前の夏の甲子園の決勝戦を再現してみせた。 そのシーンは、ファンや選手を魅了した。
[編集] 突然の引退
翌2001年は沖原佳典、藤本敦士、赤星憲広ら若手の台頭で一軍出場なし。しかし2軍ではいぶし銀の守備で活躍をしていた。同年オフの10月、秋季キャンプ前に突然「選手として自分の使命が終わった」と感じ現役を引退した。現在は野球解説者のかたわら大阪府八尾市で飲食店を経営。
[編集] エピソード
[編集] 背番号に対する愛着
近鉄に入団してから背番号48、0、8と付けて来たが自分が付けた背番号に対しては愛着を持っていた様である。 阪神に移籍した時の背番号が17(1+7=8の近鉄時代の番号の語呂合わせ)だったが、翌年2001年に、空き番になっていた1・4・5・8・9の何れかに背番号変更を球団と野村監督から打診されていたが、結局、吉田本人が断った様である。自身に取っては、自身が付けていた17に愛着があり、1・4・5・8・9は重みのある番号だった様で、まして、5は新庄剛志が付けていただけに、複雑な心境だった程、自分の背番号に愛着を持っていた。ちなみに1は谷中真二(後に鳥谷敬が付ける。)、5はトム・エバンス(翌年に沖原佳典が付け、前田忠節が付けた後、現在は濱中治が付けている。)、8は沖原佳典(翌年に片岡篤史が付け、今期より浅井良が付ける。)、9はペレス(翌年に藤本敦士が付ける)がそれぞれ付け、4はその年、空き番となった(翌年藪恵一が付け、現在はアンディ・シーツが付けている。)。尚、17は引退後の翌年にトレイ・ムーアが付け、ブラウンが付けた後、現在は金村大裕が付けている。尚、自身が背番号17を付けて翌年に1・4・5・8・9を何れかに変更しなかった事に関しては、阪神ファンの間でも近鉄ファンの間でも賛否両論の声もあったと思われる。 しかし、その愛着さは、自身が引退した年に入団した赤星に多大な影響を与えた。
[編集] 応援歌
近鉄時代の応援歌の原曲がナムコ(現・バンダイナムコゲームス)のTVゲームスカイキッドだったということもあって、同じナムコから出ていたファミスタ93の吉田の打席の時にはスカイキッドのテーマ曲が流れた(容量の関係なのか、当時の野球ゲームで選手の応援歌がそのまま流れることは稀であった。また著作権の問題もあったが、吉田の応援歌の曲の著作権はバンダイナムコゲームスにあると言える)。なお、1999年~2000年度の「大阪近鉄バファローズ選手別応援歌」CDにはそのまま収録されていた。後に前田忠節(現・阪神)がこの応援歌を継承したが、CDには収録されることは無かった。
[編集] 略歴
- 身長・体重 176cm/75kg
- 出身地 茨城県取手市
- 血液型 A型
- 投打 右投げ右打ち
- 球歴 取手二高→近鉄(1985年~2000年途中)→阪神(2000年途中~2001年)
- ドラフト年度・順位 1984年1位
- 守備位置 内野手(主に遊撃手)
[編集] 背番号
- 48(1985年~1990年)
- 0(1991年~1993年)
- 8(1994年~2000年途中)
- 17(2000年途中~2001年)
[編集] 通算成績
- 1012試合 1966打数 478安打 18本塁打 166打点 125盗塁 199四死球 418三振 打率.243