吉野ヶ里遺跡
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吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は1986年からの発掘調査によって発見された、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に広がる、弥生時代の大規模な環濠集落跡である。現在、国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている。物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるもので、日本100名城に選出されている。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 弥生時代
- 前期
- 吉野ヶ里の丘陵地帯のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。
- 南のほうの集落に環壕が出現する。
- 中期
- 後期
- 建物が巨大化し、最盛期を迎える。
- 環壕がさらに拡大し、二重になる。
- 北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。
[編集] 古墳時代
- 古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。
[編集] 律令制時代
- 奈良・平安の律令制時代には、神埼郡の役所的な性格の建物があったと推定されている。
- 律令制時代には土地の区画整理を条里制と言ったが、「吉野ヶ里」の「里」はその呼び名が今も伝わって残っているもので、旧神埼郡内には他にも「○○ヶ里」という地名が多く見られる。
[編集] その後
- 戦前から、少しずつ遺物の出土が見られるようになった。
[編集] 工場団地造成計画
- 1970年代に、農地や果樹園造成、土採りによって遺跡の一部が壊される。また、このころから吉野ヶ里丘陵一帯の広い範囲で甕棺が出土するようになった。
- 県立高校の移転改築の候補地になったが、広範囲にわたって遺物が出土していたため断念された。
- 1970年代後半に佐賀県によって調査が計画されたが、事前調査に追われて実施に至らなかった。
- 1980年代に入って、企業誘致の為に佐賀県は吉野ヶ里丘陵南部に工場団地の開発を計画する。その際文化財発掘のための事前調査を1982年から始める。
- 1986年の本格調査によって、約59haもの広範囲に遺跡が広がっていることが判明し、県は工場団地計画を縮小する。
[編集] 本格的な発掘
- 考古学者の佐原真をはじめとして、県や市民団体による啓発活動が高まりを見せ、1989年2月、一部の報道機関によって大々的な報道が始まる。これらにより連日全国から大勢の見学者が訪れるようになり、同年3月には県は遺跡と重復する地域の開発を中止する。その後1990年5月に史跡、1991年4月に特別史跡に指定され、1992年には閣議によって国営歴史公園の整備が決定する。
- その後遺跡の状態を損なわないように盛土によって保存し、その上に復元や植樹を行い公園整備を行った。
[編集] 遺跡について
[編集] 発掘された遺構
- 二重の環濠
- V字型の外壕が囲んでいる範囲は約40haにもなる。
- 見張りや威嚇のための物見櫓
- 竪穴住居、高床住居
- 高床式倉庫
- 貯蔵穴、土坑、青銅器製造の跡
- 主祭殿、東祭殿、斎堂
- まとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓、墳丘墓
- 発掘された甕棺の中の人骨には、怪我をしたり矢じりが刺さったままのもの、首から上が無いものなどがあり、倭国大乱を思わせる戦いのすさまじさが見てとれる。
- 多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器
- 勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、銅鐸、織物、布製品
- 3基の前方後方墳
[編集] 吉野ヶ里歴史公園
吉野ヶ里歴史公園 |
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敷地面積 | 54ha |
吉野ヶ里公園管理センター | |
所在地 | 〒842-0035 |
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843 | |
電話番号 | 0952-53-9333 |
公式サイト | 吉野ヶ里歴史公園 |
- 「弥生人の声が聞こえる」をテーマに整備・情報発信を行っている。
- 休園日:1月1日、12月31日、1月の第三月曜日とその翌日
- 利用料金や駐車料金あり。
- 年に十数回イベントが企画され、古代の文化や生活の体験ができるほか、多くの店も並ぶ。
[編集] 関連項目
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