和霊騒動
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和霊騒動(われいそうどう)とは元和6年(1620年)に発生した宇和島藩のお家騒動のことである。山家事件ともいう。
宇和島藩は、慶長19年(1614年)に伊達政宗の庶長子伊達秀宗が伊予に10万石を与えられて成立した藩である。政宗は秀宗に「五十七騎」と呼ばれる家臣を付け、重臣として藩を運営させた。その中で山家清兵衛公頼(やんべ せいべい きんより)が筆頭家老として実質的に藩政を執った。
初期の宇和島藩の課題は藩の支配体制を確立することである。その為、秀宗は父政宗から6万両を借り、それに当てた。その返済は寛永12年(1635年)まで続き、初期の宇和島藩にとって大きな負担となった。
また、元和5年(1619年)には大坂城の石垣修復普請を請け負ったことから藩の運営を巡り、山家清兵衛と桜田玄蕃が対立を起こす。しかし、山家清兵衛が政宗から信任が厚かったことから秀宗は清兵衛を疎んじ、桜田玄蕃を重用し、清兵衛は失脚する。翌6年(1620年)6月29日深夜、山家邸が襲撃され、山家一族は皆殺しにされた。
秀宗の命により桜田玄蕃が襲撃したと言われる。秀宗はこの事件を幕府は疎か、政宗にも報告しなかった。これに怒った政宗は、五十七騎の一人で重臣の桑折左衛門を通じて秀宗を詰問して謹慎を命じ、幕府に宇和島藩の改易を嘆願した。
慌てた秀宗は幕府や政宗に釈明の使者を出したり、妻の実家井伊直政に仲介を依頼した。秀宗の労のかいもあり、宇和島藩は改易を免れた。しかし、これにより宇和島伊達家は本家と気まずい仲になる。
また事件後、桜田玄蕃をはじめとする山家清兵衛の政敵達が不慮の事故で相次いで死亡し、秀宗も病床に伏す。このことを「清兵衛が怨霊となり怨みを晴らしているのだ」と噂となったため、秀宗は清兵衛邸跡に和霊神社を創建し清兵衛の霊を慰めた。