伊達秀宗
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伊達 秀宗(だて ひでむね、天正19年9月25日(1591年11月11日) - 明暦4年6月8日(1658年7月8日))は、江戸時代初期の大名である。伊達政宗の長男、母は猫御前。正室は井伊直政の娘ほか側室。名は兵五郎。伊予宇和島藩の初代藩主。
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[編集] 経歴
陸奥国に生まれる。文禄5年(1596年)、豊臣秀吉のもとで元服し、秀吉から一字を賜って秀宗と名乗った。このとき、秀吉の計らいで従五位下の侍従に叙され、豊臣秀頼のお側小姓として取り立てられている。秀吉死後の慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵すると、三成方の宇喜多秀家の邸で人質となる。
政宗の長男であったが、生母(猫御前)の飯坂氏が側室だったために本家の家督を継ぐことができず。また、秀吉の側にいた身から徳川の世では仙台藩の藩主としてふさわしくないという理由で別家を起こすことを父・政宗が考える。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には父・政宗とともに参陣。戦後、徳川家康から参陣の功として政宗に与えられた伊予宇和島10万石を別家として継ぎ、その初代藩主となった。家臣団の多くは、政宗が伊達家中から選んだ者で、重臣は政宗の意を受けて秀宗を輔弼した。また、藩政整備のための初期資金として仙台藩から6万両の借財をした。
元和6年(1620年)、家老山家清兵衛が対立していた桜田玄蕃に襲撃されて一族皆殺しにあう。秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父から勘当されてしまう。(清兵衛はもともと政宗の家臣であり、政宗側の人間であった。そのためか事あるごと様々なことに口を挟んだため秀宗は疎ましく感じていたとされる)さらに翌年、怒りの収まらない政宗は老中土井利勝に対し宇和島藩の返上を申し入れた。(和霊騒動)結局、利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、この場で秀宗は長男であるにもかかわらず仙台藩の家督を継げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから政宗に対しかなりの恨みを持っていることを話した。政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれた。この件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされる。 その後秀宗は藩政に力を注ぎ、明暦3年(1657年)には五男伊達宗純に伊予吉田藩を分地する。
寛永15年(1638年)頃より病床に臥す事が多くなり、実質的な政務は世子であった次男の伊達宗時に任せていたようで、「大武鑑」などでも歴代に宗時を入れている記述が見られる事より、幕府も実質的な当主は宗時であるとの認識があったようである。1653年に宗時が逝去した後は三男の伊達宗利が世子となり、1657年7月21日、伊達宗利に家督を譲って隠居した。1658年に死去、享年68。
法名:等覚寺殿前遠州太守拾遺義山常信大居士 墓所:愛媛県宇和島市野川の等覚寺、東京都港区高輪の佛日山東禅寺
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1596年(文禄5)5月9日、元服。豊臣秀吉の名より一字賜り、秀宗と名乗る。従五位下侍従叙任。
- 1614年(慶長19)12月25日、伊予国宇和島10万石藩主となる。
- 1622年(元和8)12月、遠江守兼任
- 1626年(寛永3)8月19日、従四位下
- 1657年(明暦3)7月21日、隠居
[編集] 系譜
- 正室:井伊氏(井伊直政の娘)
- 側室:渡辺氏
- 側室:山上氏
- 桑折宗臣(宇和島城代家老、桑折宗頼養子)
- 側室:吉井氏
- 伊達宗純(吉田伊達家初代)
- 側室:某氏
- 伊達徳松
- 女
- 女(渡辺左衛門首妻)
- 伊達岩松
- 側室:小池氏
- 女
- 伊達宗則(降臣、勘当され吉田に逃亡)
[編集] 関連項目
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