城井朝房
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城井 朝房(きい ともふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。城井氏の第17代(最後)の当主。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 天正16年(1588年) | |||
別名 | 宇都宮朝房(別名) | |||
氏族 | 城井氏(宇都宮氏) | |||
父母 | 父:城井鎮房 | |||
子 | 宇都宮朝末 |
第16代当主・城井鎮房の子として生まれる。天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐が始まると、父の命で豊臣軍に参加し、岩石城攻めに加わった。そのため戦後、秀吉から伊予に移封することで所領を与えられたが、朝房は父と共に豊前における所領を希望して辞退する。そして同年秋から父と共に新たに豊前に入った黒田孝高(黒田官兵衛、如水)・黒田長政父子と抗争する。朝房らは善戦し、業を煮やした孝高は、朝房の妹を長政の正室として迎えることで一旦は和睦した。
天正16年(1588年)、朝房は和睦の条件の一つとして、肥後で起こった国人一揆の鎮圧を孝高から命じられて出兵するが、その間に父は孝高によって殺された。その直後、朝房も孝高が送り出した刺客によって暗殺されてしまったのである。
朝房の死後、身ごもっていた夫人は難を逃れ、城井朝末(宇都宮朝末)を出産し、城井氏の家名はかろうじて存続した。