城井鎮房
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城井鎮房(きいしげふさ、天文5年(1536年) - 天正16年(1588年))は戦国時代から安土桃山時代の人物で、城井長房の子。豊前国の戦国大名城井氏の第十六代当主。法名は宗永。
城井氏は宇都宮氏の分流の一つの豊前宇都宮氏であり、下野宇都宮氏とは同族。宇都宮冬綱(城井冬綱)以降、城井姓を名のるようになる。
鎮房は、父の長房が本家筋の下野宇都宮氏の内紛への介入に熱心であったため、領国の管理を早くから任されていたという。最初は大内義隆に属していたが、義隆が陶晴賢の謀反で殺されると大友宗麟に属した。しかし、宗麟の勢力が1578年の耳川の戦い以後に衰退すると、今度は島津義久に属し、1587年に豊臣秀吉の九州征伐が始まると、秀吉に属すという巧みな処世術を見せている。
しかし、秀吉は九州平定後、城井鎮房に伊予への移封を命じた。だが、鎮房はこれを頑なに拒絶し、あくまで先祖伝来の豊前の本領安堵にこだわった。このため、新たに豊前に大名として入封された黒田孝高(如水)と対立することとなる。鎮房は城井谷城に立て籠もって如水を手こずらせたが、1588年正月、如水の和睦に応じて中津城に赴いたとき、暗殺されてしまった。
その後、鎮房の父・長房や子の城井朝房など、城井一族は皆殺しにされたが、懐妊していた朝房の妻が逃げ延びて男子(宇都宮朝末)を出産したため、城井氏の血脈はかろうじて保たれた。