堀田正虎
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堀田正虎(ほった まさとら)は、下野大宮藩主。陸奥福島藩の第2代藩主。出羽山形藩の初代藩主。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛文2年(1662年) | |||
死没 | 享保14年1月22日(1729年2月19日) | |||
別名 | 織部(幼名) | |||
戒名 | 慈徳院殿瑞山紹運大居士 | |||
官位 | 従五位下、従四位下、伊豆守 | |||
藩 | 下野大宮藩主→陸奥福島藩主→ 出羽山形藩主 |
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氏族 | 堀田氏 | |||
父母 | 父:堀田正俊、母:稲葉正則の娘 養父:堀田正仲 |
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兄弟 | 堀田正仲、堀田正虎、堀田正武 | |||
妻 | 正室:永井尚申の娘 | |||
子 | 養子:堀田正直、養女(五島盛佳室) |
寛文2年(1662年)、徳川綱吉を第5代将軍として擁立したことで有名な大老・堀田正俊の次男として生まれる。ただし、兄の正仲とは双子の弟である。延宝3年(1675年)、第4代将軍・徳川家綱に拝謁し、延宝9年(1681年)6月1日に中奥詰の御小姓となる。天和2年(1682年)に従五位下、伊豆守に叙任する。貞享元年(1684年)に父の正俊が暗殺されると、家督は双子の兄の正仲が継いだが、このとき父の遺領から2万石を分与されて大宮藩主となった。
元禄7年(1694年)に兄の正仲が死去すると、養子として福島藩主の座を継ぐこととなり、大宮藩は廃藩となった。元禄13年(1700年)には山形藩に移封され、宝永7年(1710年)12月18日には従四位下に叙任される。享保13年(1728年)7月7日に大坂城代に任じられるが、翌年1月22日に伊勢亀山にて死去した。享年68。墓所:東京都台東区西浅草の日輪寺。
正虎は堀田正休の五男・堀田正直を養子としていたが、早世していたため、その正直の子・堀田正春が後を継いだ。
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