徳川家綱
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 寛永18年8月3日(1641年9月7日) | |||
死没 | 延宝8年5月8日(1680年6月4日) | |||
別名 | 竹千代(幼名) | |||
諡号 | 厳有院 | |||
戒名 | 厳有院殿贈正一位相国公 | |||
墓所 | 東叡山寛永寺 | |||
官位 | 従三位権大納言、正二位右近衛大将、 内大臣、征夷大将軍、右大臣、 贈正一位太政大臣 |
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氏族 | 徳川氏 | |||
父母 | 徳川家光、宝樹院 | |||
兄弟 | 千代姫、家綱、亀松、綱重、綱吉、鶴松 | |||
妻 | 伏見宮貞清親王の娘・浅宮顕子、 吉田兼起の娘・お振の方(養春院)、 佐脇安清の娘・お満流の方(円明院) |
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子 | 徳川綱吉、直姫(実父:徳川光友) |
徳川 家綱(とくがわ いえつな、寛永18年8月3日(1641年9月7日) - 延宝8年5月8日(1680年6月4日))は江戸幕府の第四代将軍(在職1651年 - 1680年)。 3代将軍家光の長男。母は側室増山氏だが、竹千代の幼名を与えられ、世子とされた。乳母は矢島局。正室は伏見宮貞清親王の娘・浅宮顕子。 側室に養春院(お振)、円明院(お満流)。
[編集] 経歴
江戸城本丸に生まれる。父の家光は、弟忠長との間で世継争いがあったとも言われ、早くから家綱を自らの後継ぎに決めていたという。正保元年(1644年)12月、名を「家綱」と改め、正保2年4月に元服。
慶安3年(1650年)9月に西の丸へ移り、翌1651年(慶安4年)家光が48歳で死去すると、家綱は8月18日(新暦10月2日)、江戸城において将軍宣下を受け、内大臣に序せられる。12月には本丸へ移る。この前例を受け、家綱以後の将軍宣下は京都ではなく江戸で行われることとなる。
将軍家を継承したときわずか数え11歳に過ぎなかったため、家光死去の直後に浪人の騒擾未遂事件(慶安事件)が起こるなど政情不安に見舞われたが、叔父保科正之や家光時代からの大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋らの補佐によりこの危難を乗り越え、29年間の安定政権をみた。家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められ、殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から、文治政治への政策切り替えが行われた。
万治2年(1659年)4月には左大臣に任じられるのを辞退している。寛文4年には1万石以上の大名に対する領地朱印状を、さらに翌年には公家や寺社を対象とした領地朱印状を交付。
家綱は生まれつき体が弱く、しばしば病気にかかっていた為、晩年には幕府財政の悪化、大老酒井忠清の専制を許し、幕府の勢威のかげりの端緒を招いた。生来病弱で40歳で没するが、子はなく、大老酒井忠清は源実朝の没後にならい祖父・秀忠の兄・結城秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしていたとも言われるが、堀田正俊の勧めにより、延宝8年5月、末弟の綱吉を養子に迎え、将軍後嗣となった。墓所は上野寛永寺、法名は厳有院。
また、政務を全て重臣任せにして、自らは「左様せい」で決裁していたことから、「さようせい様」という異名が付けられた。
なお、家光の2男で家綱の長弟・綱重は甲府の25万石の藩主となり家綱の次の将軍候補と目されたが、1678年に没した。
6代将軍・徳川家宣と館林藩主・松平清武の伯父で7代将軍・徳川家継の大伯父にあたる。弟・綱吉の正室・鷹司信子と側室の瑞春院は義妹。
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 1645年(正保2)4月23日、元服。家綱を名乗り、従二位に叙し、権大納言に任官。
- 1651年(慶安4)8月18日、正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将を兼任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
- 1653年(承応2)7月10日(『幕府祚胤伝』では8月12日)、右大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
- 1680年(延宝8)5月8日、薨去。5月21日、贈正一位太政大臣
[編集] 関連項目
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