堀田正陳
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堀田 正陳(ほった まさのぶ、宝永6年(1709年) - 宝暦3年10月4日(1753年10月29日))は、近江宮川藩の第3代藩主。父は第2代藩主・堀田正朝。母は板倉重常の娘。正室は堀田正方の娘。継室は水谷勝比の娘。子に正邦、脇坂安親ら。官位は従五位下、出羽守、加賀守。
幼名は小太郎。三四郎。名は正邦、正命とも。享保4年(1719年)、父の死去により後を継ぐ。大番頭や大坂守衛を務めたが、大坂守衛のときに正陳の家臣が公金横領という不正を行なっている。しかし後に若年寄にまで栄進した。だが、この在任中の延享4年(1747年)8月15日に熊本藩主の細川宗孝が正陳の従弟に当たる板倉勝該に暗殺されたため、連座で処罰を受けた。
後に罪を許されて、若年寄に再任され、3000石の加増を受けた。宝暦3年(1753年)10月4日、45歳で死去し、後を子の堀田正邦が継いだ。墓所:東京都台東区の金蔵寺。
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