増田長盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
増田 長盛(ました ながもり、天文14年(1545年) - 元和元年5月27日(1615年6月23日))は安土桃山時代から江戸時代の大名、豊臣政権五奉行の1人である。仁右衛門。官位:従五位下右衛門少尉。
尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)または近江国浅井郡益田郷出身。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が織田信長の家臣であった頃から仕えていた古参の家臣で、主に内政面で活躍した。上杉景勝との外交交渉や太閤検地などで大きな功績を立てたため、秀吉にそれを賞されて大和国郡山城に20万石の所領を与えられ、豊臣政権では五奉行となる。秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役にも従軍している。
秀吉没後の1600年(慶長5)、徳川家康の留守中に五奉行の石田三成らが五大老毛利輝元を擁立して挙兵すると西軍に属する。長盛は家康に三成の挙兵を内通し、9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、大坂城の留守居を務めていたのである。戦後、家康から所領こそ没収されたが、一命は助けられてその身柄は高野山に預けられた。
1615年(元和元)、徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が大坂の陣で出奔して豊臣氏に与したため、自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。
[編集] 関連
五奉行 ‐ 他の五奉行