郡山城 (大和国)
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本丸石垣と堀 | |
通称 | |
城郭構造 |
輪郭式平山城 |
天守構造 |
不明 |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣、堀、復元櫓・門 |
位置 |
郡山城(こおりやまじょう)は、現在の奈良県大和郡山市に築かれた城。平山城に分類される。
[編集] 概要
戦国期以前から小規模な城があったが、松永久秀が滅び織田信長の下で事実上大和国の主となった筒井順慶が、天正8(1580)年にそれまで居城としていた筒井城(大和郡山市)から移り新たな城郭の建築を開始した。
順慶の死後筒井家は伊賀上野に転封となり、かわって豊臣秀吉の弟秀長が大和・和泉・紀伊の領主として郡山城に入ったが、秀長によって城はさらに大規模なものとされた。なお大和は石材に乏しい国であったために、天守台の石垣に墓石や地蔵までもが用いられている。
秀長とその養子秀保の死後大和大納言家は断絶し、増田長盛が入った。しかし関ヶ原後に長盛は高野山に追放となり、城は奈良奉行所の管轄下に入ったが整備が十分になされず荒廃した。また大坂夏の陣では緒戦で筒井一族の筒井定慶らが拠っていたが、豊臣方の大野治房の攻撃を受けて落城している。
戦後は夏の陣で大いに軍功のあった水野勝成が三河刈谷から移り、城郭の修築を行った。勝成は備後福山に転封となり、以後松平家や本多家を経て享保9(1724)年に柳沢吉里が甲府から移り、以後明治まで柳沢家が続いた。
明治3(1870)年に郡山城は破却された。現在は石垣と復元された櫓と城門があるのみだが、付近の永慶寺には破却時に移築された城門が残されている。城跡には遺構のほかに、柳沢家時代の史料を保管する柳沢文庫や柳沢家初代郡山藩主吉里の父吉保を祀る柳沢神社、さらに郡山高校・城内高校の二校などがあったが、平成16年4月に城内高校は郡山高校に統合されている。
また、柳沢神社創立時に植えられた桜は実に見事で、日本桜名所百選にも選ばれ、毎年4月1日から行われる「おしろまつり」には多くの花見客でにぎわう。
[編集] 逆さ地蔵
天守の裏手、北側の石垣には、付近から徴用されて築城に使われた数多くの石地蔵が、石垣に組み込まれたまま城下の人々により祀られている。
石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは逆さ地蔵と呼ばれている。 これらの地蔵のために、北側の石垣沿いにはさらに多くの石地蔵が奉納されている。また地蔵以外にも由来の変わった石は多く、市内東部の平城京羅城門跡から運ばれた礎石と伝わるものなどもある。
[編集] 関連項目
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