大伴金村
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大伴 金村(おおとも の かなむら、生没年不詳)は、5世紀から6世紀にかけての豪族(大連)。祖父は大伴室屋(おおとものむろや)。父は大伴談(おおとものかたり)。子に磐(いわ)・狭手彦(さてひこ)・咋(くい)がいる。
498年、仁賢天皇の死後、平群真鳥(へぐりのまとり)・鮪(しび)父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連(おおむらじ)の地位についた。506年の武烈天皇の死により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫である彦主人王の子を越前から迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えた。
512年に百済からの任那4県割譲要求があり、金村はこれを承認し、代わりに五経博士を渡来させた。527年の磐井の乱の際には物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させた。だが、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭して、金村の権勢に翳りが見え始める。そして、540年には新羅が任那地方を併合するという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県割譲など)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、大伴氏は衰退していった。
晩年は大伴氏の館のあった摂津国住吉郡(大阪市住吉区)の館に住み、そこで死去。住吉区にある帝塚山古墳は、大伴金村あるいはその子の墓とされている。
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