大山誠一
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大山 誠一 (おおやま せいいち、1944年-) は、日本の歴史学者。日本の古代政治史を専門とする。 長屋王家木簡の研究などで功績を上げたが、1996年以来、一連の著作で「聖徳太子は実在しない」との論陣を張る。1999年に吉川弘文館から出版された『<聖徳太子>の誕生』は賛否大きな反響を呼んだ。
[編集] 聖徳太子非実在論
大山は、飛鳥期にたぶん斑鳩宮に住み斑鳩寺(法隆寺)も建てたであろう有力王族、厩戸王の実在は否定しない。 しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子の実在を否定する。
- 大山によればこれらは、720年に完成した『日本書紀』において、当時の権力者であった藤原不比等・長屋王らと唐から帰国した道慈らが創造した人物像である。
- その目的は、大宝律令で一応完成した律令国家の主宰者である天皇のモデルとして、中国的聖天子像を描くことであった。
- その後さらに、天平年間に、疫病流行という危機の中で、光明皇后が、行信の助言により、聖徳太子の加護を求めて、法隆寺にある様々な聖徳太子関係史料を作って聖徳太子信仰を完成させた。
- また鑑真や最澄が、その聖徳太子信仰を利用し、増幅させていった。
(大山誠一 『聖徳太子と日本人』 風媒社、2001年 あとがきをもとに)
大山に先行して戦前の津田左右吉や戦後の小倉豊文、田村圓澄らが聖徳太子の事蹟を検証し、それらのほとんどが後世の仮託であることを指摘していた。 大山はさらに踏み込んでそれらは『日本書紀』を舞台に藤原不比等らが、法隆寺を舞台に光明皇后らが捏造したものとした。
聖徳太子実在の否定は、単に歴史上の一人物像の評価に留まらない。 いまも太子が信仰の対象となっていることも問題を複雑にしているが、そればかりでもない。 すでに『日本書紀』の神代の記述を信じるものは少ないが、聖徳太子が捏造であったとしたら、書紀成立直近の記述も信用しがたいということとなる。 日本の律令国家成立などの古代史が、その研究方法も含めて大きく揺らぐことになる。 いわば日本の古代史研究のひとつの天王山として、聖徳太子の実像をめぐっての論争や研究は続いている。
[編集] 来歴
[編集] 著書
- 『古代国家と大化の改新』 吉川弘文館、1988年
- 『長屋王家木簡と奈良朝政治史』 吉川弘文館、1993年
- 『長屋王家木簡と金石文』 吉川弘文館、1998年
- 『<聖徳太子>の誕生』 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー 65、1999年
- 『日本古代の外交と地方行政』 吉川弘文館、1999年
- 『聖徳太子と日本人』風媒社、2001年
(共著)