木簡
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木簡(もっかん)とは、古代の東アジアで墨で文字を書くために使われた、細長い木の板である。紙の普及により廃れたが、荷札には長く用いられた。
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[編集] 概要
木の板に文字を書くことは、文字を知る文化では古くからごく一般に行われていた。後代にも文字を書いた木というだけなら、落書きした木片や呪いの札など多種多様なものがみられる。歴史学・考古学の見地からは、それらすべてが過去の生活の様子を伝える貴重な資料であり、広い意味での木簡として研究対象になる。この意味での木簡は、研究上の概念であり、その時代の人々が字が書かれた様々な木を木簡として一まとめに考えていたわけではない。
その中で、中国と日本では一行または数行の文を書いた細長い板が多数出土しており、典型的な、狭義の木簡はこれである。これらは当時も木簡と呼ばれていたが、用途や状況に応じて様々に呼ばれた。漢代まで木簡と竹簡には冊書を作る用途があり、一、二行しか書けないような細長い規格で作られた。後に長い文書が紙で作られるようになり、木簡の形に対する制約がなくなっても、細長い形はなかなか変わらなかった。
木簡の特徴の一つは、削って書き直したり再利用したりすることができるという点にある。そのため当時の文具には筆、墨、硯に加えて小刀が含まれていた。削り屑に習字した例もあり、上述の広義の木簡に含まれる。
[編集] 中国の木簡
ハンガリー出身のイギリス人オーレル・スタインが楼蘭で、スウェーデンのスウェン・ヘディンが尼雅で木簡を発見した1901年が、遺跡からの木簡出土の始まりの年である。その後1930年にはエチナ川流域から一挙に1万点以上の大量の木簡が発見された(居延漢簡)。20世紀前半には西北辺境からの発見が多かったが、後半には全国で多数見つかるようになった。
中国では竹に文字を書いた竹簡が主流で、単に簡といえば竹簡を指す。しかし黄河流域以北で木簡も広く用いられた。紙が普及しない漢代まで、木簡・竹簡は文書の材料として広く用いられていた。漢代の木簡は長さ一尺など用途に応じた定型で作られ、文章が長くなるときにはつづりあわせて冊にした。
紙が普及しはじめた魏晋の頃には、文書に紙と木が併用された。公式的な長い文書には紙が使われ、特別な儀式を除き簡を束ねて冊を作ることはしなくなった。そのせいで木簡は一枚で完結する文書に用いられることになり、形の規格がなくなった。
[編集] 日本の木簡
日本の木簡としては、正倉院の宝物に付けられていたものが伝わるほか、1928年に柚井遺跡、1930年に払田柵跡で3点ずつが見つかっていた。大量出土は1961年の平城京跡での40点に始まり、以後続々と各地で見つかるようになった。数的に多いのは平城京、長岡京など都からのものだが、国・郡の地方官衙や寺院など全国から出ている。2002年度末までに総数約31万点が見つかり、数だけなら中国より多い。
日本の木簡研究は、木簡を形状と用途の二側面から分類している。形状の分類で奈良国立文化財研究所が平城京木簡の分類に際してとった13または18の型式がよく知られているが、他の方法もある。どの方法でも数が多くて目立つのは、短冊形、切りこみつき短冊形、一端を尖らせた短冊型である。大きさに定まった規格はなく、長さ20センチメートルから30センチメートル、幅2センチメートルから4センチメートルが多いが、これとかけ離れた大きさのものもあった。用途別では、文書木簡、付札木簡、その他の三つに分ける。用途と形状は密接にかかわっている。
文書木簡は、7世紀後半から、奈良時代と平安時代の10世紀までを中心に使われた。日本に文字が入ってきたとき、中国では既に紙が普及しつつあり、紙と木簡・竹簡が併用されていた。日本もそれを踏襲し、比較的短い文書についてだけ木簡を使った。すべての文書に紙を使わなかったのは、当時まだ紙が高価で需要を満たすに足りなかったためと考えられる。日本では竹簡は作られなかった。
文書木簡は、役所の間の連絡に使った文書と、日常事務の帳票の二種に大別される。人を召還する文書、飯を請求する文書など短い連絡・請求に用いられる木簡、官吏の人事考課用に一人一枚ずつ作って勤務評定を記した木簡、倉庫の出納を記録した倉札などがある。文書木簡の中には、板に孔をあけて紐や棒を通したものがある。
付札は物の内容を示すためにつけるもので、切り込みつきか、端を尖らせたものである。切り込みがあるのは、紐をそこにかけて板を結び、紐の反対端を荷物に結びつけるのである。尖らせたものは、それを俵や荷物の縄がけに差し込むためと考えられている。付札には荷物の送り主と宛て先を記す荷札と、保管される物に付けておく物品付札があった。当時は税として中央の役所に納入するものに荷札が付けられており、これを貢進物木簡(貢進物付札)と呼ぶ。要は荷札なのだが、この時代のものは量が豊富なだけでなく、送り手と内容の情報が定型的に書き込まれ、資料として読み取れる情報量が多い。
その他には習字、落書き、呪符、将棋の駒まで含めた様々な木の板が入る。告知札は立て札のことで、史料に「牓」と書かれるものらしいが、その文が「告知」で始まることからこう呼ばれる。題箋(題箋軸)は紙の巻物の軸に用いる木で、長く突き出した部分に巻物の内容を記した。封緘木簡は、一枚の木を割って二つにしたものに紙の手紙をはさんで紐でしばり、紐の上から「封」の字を書いた上で、宛て先などを記したものである。
10世紀より後になると文書木簡は見られなくなる。しかし運送する荷につける荷札は引き続き盛行し、やはり前代から見られる呪術のための札、寺社への参詣の印をして配る参篭札、座の一員である証明として今日の身分証明書のように使う札、質権設定を示すために付ける質札など多様な木簡が作られた。木の耐久性を利用したものである。中世に木簡は多く木札と呼ばれた。荷札は近代まで続き、宗教的な札は現代にもあるが、木簡という歴史学・考古学用語で呼ばれることはない。
[編集] 朝鮮の木簡
朝鮮では戦前に楽浪付近の墓から木簡が1点発見された。ついで1975年に新羅の王宮、月城の雁鴨池から40点が出土し、三国時代と統一新羅時代の遺跡から多数の木簡が発見されている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 今泉隆雄『古代木簡の研究』、吉川弘文館、1998年 ISBN 4-642-02327-5
- 大庭脩・編著『木簡 古代からのメッセージ』 大修館書店 1998年 ISBN 4-469-23140-1
- 鬼頭清明『木簡の社会史 天平人の日常生活』、講談社(講談社学術文庫)、1997年 ISBN 4-06-159670-5、初版は1984年に河出書房新社より刊)
- 佐藤信『日本古代の宮都と木簡』 吉川弘文館 1997年 ISBN 4-642-02311-9
- 原秀三郎「木簡と墨書土器」、『岩波講座日本通史』(第5巻古代4) 1995年 ISBN 4-000-10574-4
- 平野邦雄・鈴木靖民・編『木簡が語る古代史』(上・下) 吉川弘文館 1996年 ISBN 4-642-07492-9
- 水藤真『木簡・木札が語る中世』 東京堂出版 1995年 ISBN 4-490-20265-2
- 東野治之 『日本古代木簡の研究』 塙書房 1983年 ISBN 4-827-31007-6
- 平川南 『古代地方木簡の研究』 吉川弘文館 2003年 ISBN 4-642-02380-1