大掾氏
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大掾氏(だいじょうし)は日本の氏族の一つ。桓武平氏国香流。中世常陸で非常に繁栄した。
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[編集] 発祥
国香の子貞盛は天慶の乱で常陸に多くの所領を得た。貞盛は弟繁盛の子維幹を養子にし、常陸の所領を相続させた。維幹は常陸大掾職に任ぜられ、その子孫は代々大掾職を世襲したため、職名から「大掾氏」と呼ばれるようになった。
[編集] 鎌倉時代
大掾氏は在庁官人のトップとして君臨し、常陸の中・南部に広く分布、多くの枝族が栄えた。嫡流家は筑波郡多気に本拠地を置き多気氏と呼ばれたが、建久4年(1193年)多気義幹が失脚して所領と大掾職を没収され、吉田氏の吉田資幹が大掾職に任官し、大掾氏の惣領となった。その子孫は水戸城を本拠地として栄え、馬場氏とも呼ばれた。また、常陸守護である小田氏は国衙の掌握を目指し、大掾氏と度々激しい対立を起こしている。
[編集] 南北朝時代
南北朝時代に入ると、大掾高幹は中先代の乱では北条時行に、その後は宮方につき、楠木正家が瓜連城に入るとこれに助力する。建武3年(1336年)に瓜連城は佐竹義篤や高師冬によって攻め落とされる。翌年には府中奪取を目指す武家方に攻められ、小田治久と協力してこれを撃退した。しかし、翌建武5年(1338年)には武家方に投降し、小田治久を攻める。その後、大掾氏は義詮、基氏と鎌倉府に仕える。
[編集] 室町時代
応永23年(1416年)に上杉禅秀の乱が勃発すると大掾満幹を中心とする大掾氏の多くは上杉禅秀側にたつ。結局禅秀は敗れ自害し、鎌倉公方足利持氏は禅秀派の処罰をはじめる。大掾氏も本拠地である水戸城周辺の所領を没収され、持氏派の江戸道房に与えられた。満幹は水戸城の明け渡しを拒否し、占拠し続けたが、応永26年(1419年)府中に出かけて留守にしている時に水戸城を江戸道房に攻め落とされた。永享元年(1429年)12月、満幹は鎌倉で鎌倉公方持氏の命により殺害された。
[編集] 戦国時代
その後大掾氏は江戸氏、佐竹氏に押され、これにともない惣領家の求心力が衰えていく。後北条氏の勢力が北関東にも及んでくると、大掾清幹は上杉謙信と結び、佐竹氏らと協力して反北条活動をとる。しかし、その間も江戸重通は大掾氏を攻め続け、当初中立の立場をとり、時には和睦の仲介をとっていた佐竹氏も江戸重通に協力する。清幹は府中城の詰め城を殆ど落とされ、大掾氏惣領家の滅亡は時間の問題となった。これに対抗するため清幹は後北条氏と結んだと思われる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原の役が発生する。清幹をはじめとする大掾氏一族は後北条氏側に立ち、参陣をしなかった。結果、常陸は参陣をした佐竹義重に与えられた。義重は江戸城を攻めて江戸重通を追い出し、その勢いで府中城も攻め立てた。激戦の末、府中城は落城し、大掾清幹は自害した。これにより大掾本宗家は滅亡した。次いで翌年2月、義重は三十三館主と呼ばれた鹿島・行方郡の大掾氏枝族を太田城に招いた後に皆殺しにした。そして鹿島、行方郡に軍を進め、大掾氏一族の殆どは滅亡した。
[編集] 大掾氏一族
中世常陸で栄えた大掾氏の一族は多くの分家を出した。剣豪として著名な塚原ト伝(高幹)や新撰組の芹沢鴨(芹沢光幹)も大掾氏の一族である。