国衙
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国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画を指す用語。平安時代頃までに、国司の役所そのもの(国庁という)を国衙と呼んだり、国司の行政・司法機構を国衙と呼ぶことが一般的となった。また、国衙に勤務する官人・役人を「国衙」と呼んだ例も見られる。国衙を中心として営まれた都市域を国府といった。
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[編集] 遺跡と区画
主な国衙遺跡には、周防国衙(防府市)、常陸国衙(石岡市)、近江国衙(大津市)、土佐国衙(香美市)などがある。これらの国衙遺跡から、各国の国衙区画プランにいくつかの共通点があることが判っている。
国衙の中心的な施設として、国庁正殿が置かれた。正殿は国司が政務をとる庁舎である。正殿の前後には、前殿・後殿が設置されることもあった。正殿の前方両脇には脇殿が配置されていた。正殿は北を背にして南向きに建てられることが多かったので、脇殿は東西に置かれ、それぞれ東脇殿・西脇殿と呼ばれていた。国衙の実務官人らは、脇殿で様々な国務処理に当たっていたと考えられている。これらの官衙群は築地塀・掘立柱塀で囲まれた区域内に整然と配置されており、この国衙域はおよそ数十メートル-100メートル前後四方に区画されていることが多かった。
ただし、国庁正殿や国衙域の規模は、各国ごと、時代ごとに異なっており、各国衙区画プランを比較すると共通点よりむしろ差異が目立つ。国庁の周囲には、事務消耗品・備品や武器を製作する工房や食事のための厨屋など(これらを曹司という)の他、国司の生活の場である国司館、租税を収蔵する正倉などが配置されていた。これら建築群の配置態様は、各国によって全く異なっている。
[編集] 沿革
最初期の国衙は、律令制構築段階の7世紀後期に登場したと考えられている。しかし、この当時は地方政治制度が十分に確立していなかったので、後に見るほど確固とした国衙が成立したわけではなかった。8世紀前期から中期にかけての時期、国衙は安定的に営まれるようになる。この時期が国衙の成立期だとされている。
国衙には、律令の規定に基づいて守・介・掾・目の国司四等官と書記官である史生が勤務した。この他の国衙職員としては、国博士・国医師・国師といった専門職員や雑徭によって徴発された徭丁らがいた。合計すると小国では数十人、大国では数百人とかなりの規模の人数が勤務しており、国衙を中心に都市的な領域が形成されていた。
9世紀頃から律令法制と社会実情が次第に乖離していき、同世紀末には律令規定に基づく地方統治が困難となると、10世紀前期、朝廷は統治権限を大幅に国司へ移譲する国制改革を行った(これにより成立した体制を王朝国家体制という)。国司は大幅に増えた権限に対応するため、国衙機構の強化に努めるようになり、租税収取を所管する部署(税所・田所・大帳所・出納所など)や、軍事を所管する部署(健児所・検非違使所・厩所など)、所務・雑務を所管する部署(政所・調所・細工所・膳所など)を国衙に整備していった。同じ頃、国司が任国へ赴任せず(遙任という)、目代という代理人兼監督者を現地派遣し、現地の有力者や官人(在庁官人という)に国衙政治を任せるケースが増えていた。11世紀・12世紀になると、国衙政治の実務は事実上在庁官人が担うようになっており、受領国司は在庁官人の力なしに国内統治を果たすことはできなかった。
11世紀中期頃から荘園の増加が著しくなり、従来、国衙が支配していた公田が次第に減少していった。国衙はこれに対抗するため、支配する公田を領域的にまとめて、郡・保・郷・条などの支配単位に再編成した。こうして国衙は自らの支配域を領域化することに成功し、こうして成立した国衙の支配域を国衙領という。
鎌倉時代になると、幕府は各国へ守護を設置した。守護は検断権のみが認められていたのであり、国衙の統治権を侵害する存在ではなかったが、守護が所在した守護所はしばしば国衙の近隣に営まれ、国衙・守護所両者の機能が次第に一体化する傾向が見られ始めた。
室町時代の守護は検断権だけでなく更に強力な統治権限が認められたため、守護は積極的に国衙の統治権限を蚕食していった。その結果、室町前期のうちに国衙機構は守護所に取り込まれ、ほとんどの国衙は実質的に消滅した。
[編集] 遺称地名
国衙が地名として残存している例はそれほど多くないが、防府市国衙(周防国衙跡)が比較的有名である。
そのほかの地名としては
がある。