大橋秀行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大橋 秀行(おおはし ひでゆき、1965年3月8日- )は神奈川県横浜市生まれの元プロボクサーで、WBAとWBCの世界ミニマム級王者に輝いた。現役時代の異名は"150年に一人の天才"フェニックス(不死鳥)"。横浜高等学校~専修大学中退。宅地建物取引主任者
現在は地元・横浜に大橋ボクシングジムを開設しており、教え子の川嶋勝重をWBC世界スーパーフライ級王者にまで育て上げている。
また、川嶋勝重を徳山昌守の世界王座に挑戦させる際、「徳山には決定的な弱点が3つある。川嶋は1Rで徳山をKOするだろう」と予言し、見事的中させた。
だが、後日、専門誌で飯田覚士と対談した際、「1RKO宣言」「徳山の弱点」発言が単なるハッタリであったことを自ら暴露した。
2007年1月3日開催の「ボクシング・グランプリ2007」にて日本代表の総監督を務める。
同年2月、東日本ボクシング協会会長就任が内定。
[編集] 来歴
具志堅用高の売り文句だった"100年に一人の天才"というキャッチフレーズに対抗して"150年に一人の天才"としてヨネクラジムからプロデビュー。「ライト級に匹敵する」と言われた強打を武器に、ミニマム級・ライトフライ級の2階級に渡って活躍した。
1986年6月、6戦目で日本ライトフライ級王座を獲得。1度も防衛戦を行うことなく返上。
同年12月、世界初挑戦。敵地でWBC世界ライトフライ級王者張正九(韓国)に挑むが、5回TKO負けを喫する。
同年6月27日、後楽園ホールで張に再挑戦。この試合が15度目の防衛戦となる王者に右の強打をクリーンヒットさせ、大きくグラつかせるシーンもあったが、仕留め切ることができず、結局、8回1分47秒TKO負け。なお、この試合は同年の年間最高試合に選ばれている。
1990年2月7日、3度目の世界挑戦。崔漸煥(韓国)を9回2分11秒KOに降し、WBC世界ストロー級王座獲得。日本国内ジム所属選手の世界挑戦連続失敗記録を"21"でストップし、約1年3ヵ月に及んだ日本人世界王者不在期間に終止符を打つという大殊勲の勝利だった。この試合も同年の年間最高試合に選ばれている。
同年10月25日、2度目の防衛戦でリカルド・ロペス(メキシコ)に5回TKO負けを喫し、王座陥落。なお、ロペスはその後、大橋から獲得した王座を実に22度も防衛し、無敗のまま引退することになる。
1992年10月14日、2年ぶりの世界挑戦。WBA世界ストロー級王者崔煕庸(韓国)に挑み、12回判定勝ち。世界王座返り咲きを果たす。
翌1993年2月10日、初防衛戦でチャナ・ポーパオイン(タイ)に12回判定負けを喫し、王座陥落。試合後、一時は現役続行を示唆したものの、その後眼疾が判明。結局、この試合を最後に引退した。
最終戦績は24戦19勝(12KO)5敗。
[編集] 外部リンク
前王者 崔漸煥 |
第4代WBC世界ミニマム級王者 1990年2月7日 - 1990年10月25日 |
次王者 リカルド・ロペス |
前王者 崔煕庸 |
第4代WBA世界ミニマム級王者 1992年10月14日 - 1993年2月10日 |
次王者 チャナ・ポーパオイン |