大石氏
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大石氏(おおいしし)は、室町時代、戦国時代に関東地方で活躍した氏族である。木曽義仲の後裔といい、信濃国大石郷に住んでいたことから大石氏を名乗ったといわれる。
1334年(正慶3年)南北朝時代、大石信重は木曽家教の三男として生まれ、大石為重の養子となり、関東管領上杉憲顕に仕えた。観応2年(1351年)、挙兵した南朝方の新田義宗との笛吹峠の合戦で先陣を勤めた戦功として、1356年(延文元年)武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し、秋多町 (現・あきる野市)の二宮に館を構えた。また、「武蔵国目代職」にも任じられたという。
1384年(至徳元年)、信重は、浄福寺城(現・八王子市下恩方町)を築城したという。 1396年(応永3年)、大石能重なる人物が史料に現れる。武蔵・上野・伊豆各国守護の上杉能憲に仕えた守護代を務めたという。
1458年(長禄2年)、大石顕重が高月城(現・八王子市高月町)を築城し、二宮から本拠を移したという。15世紀末期頃の禅僧・万里集九の著作、漢詩文集『梅花無尽蔵』巻六の「万秀斎詩序」に、武蔵国守護の家臣に、木曽義仲十代の子孫・大石定重がおり、武蔵国20余郡を掌握しているとの記述がある。 1521年(大永元年)、定重は、高月城の北東1.5kmに滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し本拠を移転したという。
後北条氏が関東に進出し、1546年(天文15年)、北条氏康が河越夜戦で大勝する。その結果、扇谷上杉氏は滅亡し、関東管領山内上杉氏は武蔵国から排除され、越後国の長尾景虎を頼って没落する。主家の没落により、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘婿に迎えて、自らは戸倉に隠居したという。領地支配を守護上杉氏に頼りすぎた大石氏はほかの守護代のように領域支配に失敗し、戦国大名への脱却をできなかったといえる。
小田原の役により後北条氏が没落すると、大石定久の実子大石定仲と養子大石定勝は徳川氏に仕えた。八王子千人同心としてその子孫は明治時代を迎えた。