大関高増
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大関 高増(おおぜき たかます、享禄2年(1529年) - 慶長3年(1598年))は、戦国時代、安土桃山時代の武将。大田原資清の長男で、大田原綱清の兄に当たる。大関晴増・大関清増・大関資増・女子(千本資政妻)の父。
父の政略で大関宗増の養嗣子となり、家督を継いだ。永禄3年(1560年)、小田倉の戦いでは、結城氏・蘆名氏の侵攻に際し、那須資胤を援け、防戦に努めたが、戦後、合戦に苦戦した事を非難され、主家と対立。高増は、大田原氏ら上那須衆と共に佐竹氏に内通した。以後、上那須衆と那須氏の間で、戦いが繰り返され、永禄9年(1566年)には、佐竹氏・宇都宮氏も加わり那須資胤を攻撃。しかし、那須氏の奮戦に退けられ、翌年、佐竹義重と共に、大崖山で那須氏と戦うが、再び退けられた。資胤との戦いに、いずれも敗れた、大関氏・大田原氏は、永禄11年(1568年)、那須氏と和睦。高増は、剃髪して「入道安磧」と称し、主家に反抗した罪を謝した。その後は、那須七騎の筆頭的な人物として主家を支え、那須資晴の頃には那須氏における最有力の人物として権勢を誇った。しかし、天正13年(1586年)には、千本資俊・千本資政親子を謀殺し、千本氏の遺領を弟の福原資孝・大田原綱清らと勝手に分配するなど、専断的な行動も目立った。天正18年(1590年)の、豊臣秀吉の小田原征伐では、主家那須氏が遅参し、改易されたのに対し、いち早く参陣し、所領を安堵された。没年月日には1600年1月14日説もある。
大関 高増(おおぜき たかます、慶長16年(1611年) - 正保3年8月21日(1646年9月30日))は、黒羽藩の第3代藩主。大関政増の長男。母は水野重央の娘。従五位下、土佐守の地位にあった。正室は分部光信の娘。子に大関増親、大関増栄、屋代忠正室らがいる。
元和2年(1616年)、父・政増が死亡したため、藩主となった。正保3年(1646年)に36歳で死去し、その後は長男の大関増親が継いだ。
|
|
|