千本資俊
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千本 資俊(せんぼん すけとし、大永2年(1522年) - 天正13年12月8日(1586年1月27日))は下野国・那須氏の家臣。千本資次の子。 千本資政の父。
那須七騎千本氏の当主であり、本家である那須氏を主家として仰ぐ立場であったが、天文20年(1551年)、宇都宮氏の家臣・芳賀高定の謀略にかかり、主君・那須高資を千本城に誘殺した。そのため一時、那須氏を追われたが、高資の死によって当主の座についた那須資胤に許され帰参、腹心として権勢を振るった。しかし資胤の死後は、同じ那須氏の家臣であった大関高増の反感を買う。天正13年(1586年)、高増は、当主那須資晴に千本氏を討つ事を勧め、資俊は子の資政と共に太平寺に誘い出され、そこで殺害された。
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