大陸会議
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大陸会議(たいりくかいぎ、英:Continental Congress)は、英国本国の高圧的な植民地経営に対して北アメリカ13州の自治意識が高まり、1774年から開催された各植民地代表による会議である。第1次大陸会議と第2次大陸会議がある。アメリカ合衆国の独立承認後は連合会議に発展する。
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[編集] 第1次大陸会議
第1次大陸会議(英:First Continental Congress)は、英国の北アメリカ13植民地のうち12の議会によって指名された代表による会議体である。1774年に開催された。
[編集] 背景
不評だった印紙法に対抗して植民地人によって開かれた印紙法会議と同様に、第1次大陸会議は主に「耐え難き諸法」(Intolerable Acts)に対して開かれた会議である。会議は永久通信委員会を通じて企画された。会議の場所としては、植民地の中心にあり、代表的な都市の一つであるペンシルバニア邦のフィラデルフィアにあるカーペンターズホールに決められた。
[編集] 会議
会議は1774年9月5日から10月26日まで開催された。ペイトン・ランドルフが進行役を務めた。ヘンリー・ミドルトンが10月22日から最後までの大陸会議議長となった。 会議では2つの重要な成果を得た。1つめは、10月20日に連帯決議を作成したことである。決議には「耐え難き諸法」が撤回されなければ、英国製品をボイコットし、また輸出も止めるという植民地間の盟約を盛り込んだ。ボイコットは実施されたが、アメリカ独立戦争の勃発によって英国の植民地政策を変えるまでには至らなかった。 2つめは、第二次大陸会議を1775年5月10日から開催するとしたことである。第一次大陸会議に代表を送った植民地に加え、ケベック、プリンス・エドワード島、ノヴァ・スコシア、ジョージア、東フロリダ、西フロリダに招待状が発せられた。ジョージアは代表を送らなかった。
[編集] 植民地および代議員
- ニューハンプシャー
- Province of New Hampshire
- ナサニエル・フォルソム:Nathaniel Folsom
- マサチューセッツ
- Province of Massachusetts Bay
- ジョン・アダムズ:John Adams
- サミュエル・アダムズ:Samuel Adams
- トーマス・クッシング:Thomas Cushing
- ロバート・トリート・ペイン:Robert Treat Paine
- ロードアイランド
- Colony of Rhode Island and Providence Plantations
- ステファン・ホプキンス:Stephen Hopkins (politician)|Stephen Hopkin]
- サミュエル・ウォード:Samuel Ward
- コネチカット
- Connecticut Colony
- シラス・ディーン:Silas Deane
- エリファレット・ダイアー:Eliphalet Dyer
- ロジャー・シャーマン:Roger Sherman
- ニューヨーク
- Province of New York
- City and County of Albany, City and County of New York, County of Duchess, and County of West Chester
- ジョン・アルソップ:John Alsop
- ジェームズ・デュアン:James Duane
- ジョン・ジェイ:John Jay
- フィリップ・リビングストン:Philip Livingston
- イサック・ロー:Isaac Low
- County of Kings
- シモン・ベーラム:Simon Boerum
- County of Orange
- ジョン・ハリング:John Haring
- ヘンリー・ウィスナー:Henry Wisner
- County of Suffolk
- ウィリアム・フロイド:William Floyd
- City and County of Albany, City and County of New York, County of Duchess, and County of West Chester
- ニュージャージー
- Province of New Jersey
- ステファン・クレーン:Stephen Crane (delegate)|Stephen Crane
- ジョン・デ・ハート:John De Hart
- ジェームズ・キンゼイ:James Kinsey
- ウィリアム・リビングストン:William Livingston
- リチャード・スミス:Richard Smith (delegate)|Richard Smith
- ペンシルバニア
- Province of Pennsylvania
- エドワード・ビドル:Edward Biddle
- ジョン・ディッキンソン:John Dickinson (delegate)|John Dickinson
- ジョセフ・ギャロウェイ:Joseph Galloway
- チャールズ・ハンフリーズ:Charles Humphreys
- トーマス・ミフリン:Thomas Mifflin
- ジョーン・モートン:John Morton (politician)|John Morton
- サミュエル・ロード:Samuel Rhoads
- ジョージ・ロス:George Ross (delegate)|George Ross
- デラウェア
- Delaware Colony|New Castle, Kent, and Sussex, on Delaware
- トーマス・マッキーン:Thomas McKean
- ジョージ・リード:George Read (signer)|George Read
- シーザー・ロドニー:Caesar Rodney
- メリーランド
- Province of Maryland|Maryland
- サミュエル・チェイス:Samuel Chase
- ロバート・ゴールズボロ:Robert Goldsborough
- トーマス・ジョンソン:Thomas Johnson (governor)|Thomas Johnson
- ウィリアム・パカ:William Paca
- マシュー・ティルマン:Matthew Tilghman
- バージニア
- Colony and Dominion of Virginia
- リチャード・ブランド:Richard Bland
- ベンジャミン・ハリソン V:Benjamin Harrison V
- パトリック・ヘンリー:Patrick Henry
- リチャード・ヘンリー・リー:Richard Henry Lee
- エドムンド・ペンドルトン:Edmund Pendleton
- ペイトン・ランドルフ:Peyton Randolph
- ジョージ・ワシントン:George Washington
- ノースカロライナ
- Province of North Carolina
- リチャード・キャスウェル:Richard Caswell
- ジョセフ・ヒューズ:Joseph Hewes
- ウィリアム・フーパー:William Hooper
- サウスカロライナ
- Province of South Carolina
- クリストファー・ギャスデン:Christopher Gadsden
- トーマス・リンチJr:Thomas Lynch, Jr.
- ヘンリー・ミドルトン:Henry Middleton
- エドワード・ルトレッジ:Edward Rutledge
- ジョーン・ルトレッジ:John Rutledge
[編集] 第2次大陸会議
第2次大陸会議は1775年5月10日から1781年3月1日まで、開催されたアメリカ13植民地の代表による会議である。
第2次大陸会議が開かれる前に、1775年4月19日のレキシントン・コンコードの戦いによって、アメリカ独立戦争の火ぶたは切られていた。会議は、遙かに強力な敵との戦争に直面して、軍事同盟の意志決定主体とならざるを得なかった。
英国軍に対抗するために植民地軍が1775年6月14日に結成され、ジョージ・ワシントン将軍が次の日に総指揮官に任命された。7月8日、和解の試みとして「オリーブの枝請願」が英国王に送られたが、英国王ジョージ3世はその受け取りを拒否した。シラス・ディーンがフランスに大陸会議の大使として派遣された。アメリカの港は航海法を無視して開港された。最も重要なことは1776年の独立宣言である。リー決議として知られる実際の独立提案は7月2日に可決され独立宣言が7月4日に採択、8月2日に署名された。 大陸会議は、英国軍がアメリカ合衆国の最初の首都とされたフィラデルフィアを占領したため、1777年9月末にこの地を離れ、ヨークに移されその運営を継続した。
1777年11月17日、デロス同盟に比せられる連合規約を可決し州間の同盟を堅くした。大陸会議はこの規約を各州でも可決するように急がせたが、すべての州で批准するまでには3年半を要した。この間も戦争は乏しい金と乏しい戦力のままで続いていた。最終的に連合規約は1781年3月1日にすべて批准された。大陸会議は解散し、翌日同じメンバーで連合会議に引き継がれた。これがアメリカ独立戦争を終結させる議会となる。 第2次大陸会議の議長はジョーン・ハンコックが務めた。
[編集] 第2次大陸会議に参加した植民地
- ニューハンプシャーProvince of New Hampshire
- マサチューセッツProvince of Massachusetts
- ロードアイランドColony of Rhode Island and Providence Plantations
- コネチカットConnecticut Colony
- ニューヨークProvince of New York
- ニュージャージーProvince of New Jersey
- ペンシルバニアProvince of Pennsylvania
- デラウェアDelaware Colony|Lower Colonies on Delaware
- メリーランドProvince of Maryland
- バージニアColony and Dominion of Virginia
- ノースカロライナProvince of North Carolina
- サウスカロライナProvince of South Carolina
- ジョージアProvince of Georgia
ジョージアは第1次大陸会議に参加しなかったし、第2次大陸会議にも5月10日は代表を送らなかった。5月13日ジョージアのセント・ジョンズ郡の代表としてライマン・ホールが参加したが、植民地の代表としてではなかった。1775年7月4日にジョージアの議会を開いてアメリカ独立戦争にどう対処するかを議論し、7月8日に大陸会議に代表を送ることを決めた。代表団は7月20日に到着した。
[編集] 会議の会期と場所
- 1775年5月10日~1776年12月12日、フィラデルフィア
- 1776年12月20日~1777年3月4日、ボルチモア
- 3月5日~9月18日、フィラデルフィア
- 1777年9月27日(1日のみ)、ランカスター
- 1777年9月30日~1778年6月27日、ヨーク
- 1778年7月2日~1781年3月1日、フィラデルフィア