太田氏房
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太田 氏房(おおた うじふさ、永禄8年(1565年) - 文禄元年4月28日(1592年6月7日))は、後北条氏の一族。第4代当主・北条氏政の三男で、北条氏直の弟。幼名は菊王丸。十郎。
[編集] 生涯
岩付城主・太田氏資が1567年に戦死したため、その娘を娶って太田氏の家督を継ぎ、太田氏房と称したと一般的に言われている。しかし、氏資の娘は氏房の実兄の源五郎(あるいは東国丸)に嫁いだともいわれている。また、氏房と氏資の娘の婚儀が行われたは1585年であるとする文書も存在しており、1582年に死去したとされる源五郎の後継者としてその未亡人である氏資の娘と婚姻を行った可能性もある。更に太田姓を称したかも定かではない。 1590年、豊臣秀吉の小田原征伐では居城の岩槻城は家臣に守らせ、自分は小田原城に籠城した。ちなみに岩付城は、小田原城開城に先立って5月20日に陥落した。
北条氏滅亡後、兄・氏直と共に高野山で蟄居した。その後、寺沢広高預かりとなって肥前国に移され、そこで1592年に死去した。享年28。 法名:梅雲院殿玉翁昌蓮大禅定門
[編集] 参考文献
- 黒田基樹著 戦国北条一族 ISBN 440403251X C0021
- 歴史群像シリーズ14 新説北条五代 早雲と一族、百年の興亡 (1989年、学習研究社)