奥殿藩
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奥殿藩(おくどのはん)は、三河国加茂郡・額田郡(現在の愛知県岡崎市奥殿町字雑谷)と信濃国佐久郡に存在した藩。藩庁は奥殿陣屋。
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[編集] 藩史
正徳元年(1711年)、大給藩の第3代藩主・松平乗真は交通の利便などから藩庁を大給から奥殿に移転したため、ここに奥殿藩が立藩した。しかし1万6000石の小藩の悲しさからか、享保年間には矢作川の洪水、飢饉を原因とする年貢半減を求める強訴などが起こった。天明年間にも天候不順から大凶作となり、そのために藩内で大暴動が起こった。
このような中で第7代藩主となった松平乗利は有能な名君で、90歳以上の者に対しては長寿を称えるということから毎年、米を100苞与えた。さらに文武を奨励して演武場、藩校・明徳館などを創設している。天保4年(1833年)の凶作時には、窮民に対する救済も万全に行なうなど、他の歴代藩主と比較して賞賛されるほどの藩政を行なっている。
乗利の後を継いだ松平乗謨は、幕末の動乱の中では佐幕派であり、海陸御備向・大番頭を経て、24歳の若さで若年寄にまで栄進し、幕末の幕政に尽力した。文久3年(1863年)9月11日、乗謨は藩庁を奥殿から信濃田野口に移し、同年11月には藩名を田野口藩と改めたため、以後、松平(大給)氏は田野口藩として存続した。
しかし、三河国の領民の多くは、この移転に反対して嘆願書を差し出すほどであったと言われている。
[編集] 歴代藩主
[編集] 松平(大給)(まつだいら(おぎゅう))家
譜代。1万6000石。
- 松平乗真(のりざね)<従五位下。縫殿頭>【正徳元年4月28日藩主就任-享保元年7月5日死去】
- 松平盈乗(みつのり)<従五位下。縫殿頭>【享保元年9月5日藩主就任-寛保2年5月21日死去】
- 松平乗隠(のりやす)<従五位下。石見守>【寛保2年7月13日藩主就任-天明2年11月21日隠居】〔大番頭。二条城在番〕
- 松平乗友(のりとも)<従五位下。兵部少輔>【天明2年11月21日藩主就任-寛政2年3月6日隠居】
- 松平乗尹(のりただ)<従五位下。主水正>【寛政2年3月6日藩主就任-享和2年12月2日隠居】〔大坂加番〕
- 松平乗羨(のりよし)<従五位下。縫殿頭>【享和2年12月6日藩主就任-文政10年8月23日死去】〔大坂加番。大番頭。二条城在番〕
- 松平乗利(のりとし)<従五位下。石見守>【文政10年10月16日藩主就任-嘉永5年3月5日隠居】〔大坂加番〕
- 松平乗謨(のりかた)<正四位下。縫殿頭>【嘉永5年3月7日藩主就任-文久3年9月11日移転】〔大番頭。若年寄。海陸御備向掛〕→田野口藩へ。