奥田忠高
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奥田 忠高(おくだ ただたか、大永元年(1521年)-慶長7年(1602年))は、戦国時代に大和国畑城(現在の奈良県山添村)を根拠とした武将である。
小豪族の習いで、松永久秀・筒井順慶・羽柴秀長といった歴代の大和国主に仕えて勢力を維持する。
関が原の合戦では東軍側について活躍し、徳川家康から大和国内に2,800石を与えられて江戸幕府の旗本となり、明治まで家名を残した。
息子奥田忠次(1574~1615)は、大坂夏の陣で後藤又兵衛と激闘の末に戦死した事で知られている。
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