孝昭帝
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姓名 | 高演 |
年号 | 皇建560年-561年 |
廟号 | 粛宗 |
字 | 延安 |
諡号 | 孝昭皇帝 |
生没年 | 535年-561年 |
在位 | 560年-561年 |
父 | 高歓(第六子) |
母 | 婁氏 |
考昭帝(こうしょうてい、535年 - 561年、在位560年 - 561年)は、中国の南北朝時代の北斉の第3代皇帝。姓は高、名は演、字は延安。廟号は粛宗。
同母長兄に高澄、同母次兄に高洋(文宣帝)、同母弟に高湛(武成帝)、太子に高百年がいる。皇帝の座に着く前は常山王に封じられていた。
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[編集] 略伝
文宣帝の兄弟で朝廷に参駕しては、兄の暴虐を諌めていたという。 文宣帝も彼に簒奪されることを予感しており死の間際に、皇位簒奪をしても甥の廃帝殷の殺害はせぬようにと言われていた。文宣帝崩御後は朝廷で勢力を振るった。それに対し廃帝殷は高演を排除しようとするが、560年、逆に高甚と謀り廃帝殷を廃し、自らが皇位に就いた。
孝昭帝の治世は人材を広く求め、前代までの弛緩した朝政の建て直しに尽力した。民衆に対しては税賦の軽減を図り、軍事面では庫莫奚への親征を行なうなどの功績を残した。
即位1年後、落馬の怪我が原因で死去した。
彼が落馬した時、母親の婁氏が彼を見舞った。だが、そこで孫の廃帝殷が彼によって殺害されたことを知ると、彼女は息子が孫を殺害したことを非謗し「あんたなんぞ死んで当然さ!」と言い残して立ち去って、二度と見舞いに来ることがなかったという。また彼も、太子の高百年が甥の廃帝殷のように殺害されてしまうことを恐れて、死の間際に皇位を異母弟の高湛(武成帝)に譲る時に、「頼むから、どうかわしの可愛い息子を殺さないでおくれよ…」と遺言した。その甲斐空しく、世子・高百年も甥を恐れた叔父の武成帝の手によって、殺害されてしまったのである。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 元皇后
- 桑氏
[編集] 子
- 楽陵王 高百年(皇太子)
- 襄城王 高亮
- 汝南王 高彦理
- 始平王 高彦徳
- 城陽王 高彦基
- 定陽王 高彦康
- 汝陽王 高彦忠
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