学校法人立命館
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学校法人 立命館
学園創立 | 1900(明治33)年 |
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建学の精神 | 自由と清新 |
教学理念 | 平和と民主主義 |
学校種別 | 私立 |
学祖 | 西園寺公望 |
創立者 | 中川小十郎・末弘威麿 |
総長・学長 | 川口清史 |
理事長 | 長田豊臣 |
本部 | 京都市中京区西ノ京朱雀町 |
立命館学園 | 立命館大学 立命館アジア太平洋大学 立命館中学校・高等学校 立命館宇治中学校・高等学校 立命館慶祥中学校・高等学校 立命館守山高等学校 立命館小学校 |
ウェブ サイト |
http://www.ritsumei.ac.jp/ |
学校法人立命館(がっこうほうじんりつめいかん、英字表記:Ritsumeikan)は、日本の学校法人の一つ。京都府京都市中京区西ノ京朱雀町に本部を置く。全学園の学生・生徒数は約45,000名、教職員数は約2,000名(2006年現在)。
目次 |
[編集] 歴史
- 1900(明治33)年 - 中川小十郎が京都法政学校設立(1888年設立の「京都法学校」を吸収)。学園監事に西園寺公望の実弟・末弘威麿、初代校長に民法学者・富井政章が就任。
- 1901(明治34)年 - 西園寺公望の実弟・住友吉左衛門からの寄付を受け、広小路(上京区清和院口寺町東)に移転。
- 1903(明治36)年 - 専門学校令による私立京都法政専門学校に改称。
- 1905(明治38)年 - 廃絶していた西園寺公望の私塾「立命館」の名跡の使用許可を得、西園寺公から直筆の「立命館」の3文字を大書、75文字のゆかりを付記した大扁額が寄贈される。
- 1905(明治38)年 - 清和普通中学校(現在の立命館中学校・高等学校)開校。
- 1913(大正2)年 - 学校組織を財団法人に切り替え、財団法人立命館が設立(設立出願9月15日、認可12月2日)。同時に学園の名称を立命館で統一(名称変更出願11月29日、認可12月10日)。名称変更手続名義人は、私立立命館大学設立者・末弘威麿。
- 1933(昭和8)年 - 京大事件発生。
- 1938(昭和13)年 - 西園寺文庫創設。
- 1939(昭和14)年 - 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀のから50万円の寄付を受け、衣笠に土地を購入。
- 1940(昭和15)年 - 学祖西園寺公望敬仰決議。
- 1942(昭和17)年 - 加古文庫創設。
- 1949(昭和24)年 - 総長選任制度が発足。
- 1950(昭和25)年 立命館短期大学併設。
- 1951(昭和26)年 - 財団法人立命館を「学校法人立命館」に組織変更。
- 1957(昭和32)年 - 末川文庫創設。
- 1994(平成6)年 - 立命館大学びわこ・くさつキャンパス (BKC) 開設。
- 1994(平成6)年 - 立命館宇治高等学校開校(学校法人宇治学園との合併)。
- 1995(平成7)年 - 立命館大学慶祥高等学校(現立命館慶祥高等学校)開校(学校法人慶祥学園を合併)。
- 2000(平成12)年 - 立命館アジア太平洋大学(大分県別府市)を開校。
- 2000(平成12)年 - 立命館慶祥中学校開校。
- 2003(平成15)年 - 立命館宇治中学校開校。
- 2006(平成18)年 - 立命館守山高等学校(市立守山女子高等学校を守山市から無償移譲、さらに併行して平安女学院大守山キャンパスも譲り受ける)開校。
- 2006(平成18)年 - 立命館小学校開校。
- 2006(平成18)年 -立命館朱雀キャンパス開設、学園本部を移転。
- 2007(平成19)年 - 立命館守山中学校開校予定。
[編集] 財団法人立命館の設立者
1913(大正2年)12月13日、財団法人立命館の設立および学校名称変更発表式を開催。学校組織を財団法人立命館とするとともに、大学を私立立命館大学、中学校を私立立命館中学と改めることが発表された。学校名称の変更申請は、末弘威麿の名義で行われたが、財団法人立命館の設立申請は中川小十郎名義で為され、二つの申請がほぼ同時に文部省から認可されたため、財団代表者と学園設立者が異なるという事態が発生した。この問題を解消するため、同年12月16日、末弘と中川の連名による申請書「財団法人立命館ヲ私立立命館大学設立者ト為スノ件」が文部省に提出され、中川小十郎および末弘威麿の二人が「財団法人立命館理事 兼 私立立命館大学設立者」の座を共有することになった。
[編集] 財団法人立命館の組織
財団法人立命館の理事は、終身理事・任期制理事(任期3年)の二人制で、初代終身理事には中川小十郎が、任期制理事には末弘威麿が就任した。理事の下には最大10名からなる協議会と、学園監事のポストが置かれた。なお、理事および監事は協議員を兼任するものとされた。
初代の協議員は、京都帝国大学教授を中心に構成され、井上密、石坂音四郎、仁保亀松、戸田海市、織田萬、岡村司、勝本勘三郎、田島錦治らが選ばれた。また、立命館大学予科・立命館中学学監には京都帝大文科大学教授の小西重直が就任した。
協議員会には大きな権限が与えられ、委員の三分の二が賛成すれば財団の解散も可能であった。また、財団「寄付行為」には、財団解散時には所有財産の全てが京都帝国大学に寄付されると明記されていた。
[編集] 法人名の由来
立命館大学は中川小十郎が開いた京都法政学校が起源であるが、その立命館という名は、西園寺公望が京都御所邸内に一時開いていた私塾立命館に由来する。この「立命館」は、孟子「盡心章(じんしんしょう)」にある「殀寿貳(ようじゅたが)わず、身を修めて以て之を俟(ま)つは、命を立つる所以(ゆえん)なり」(人間の寿命は天命によって決められている。修養に努めてその天命を待つのが人間の本分の全うである、という意味。)という一節から得ている。1905年、廃絶していたこの「私塾立命館」の名称を、中川小十郎の希望により、中川の創設になる「京都法政学校」が継承することを許可した。その際、西園寺公望は、次のような扁額をしたためている:
- 立命館 - 往年、余は一校を興し名づけて立命館という。泰西に遊学するに及んで、校廃し名存す。この頃京都法政学校学員来り、その名を襲用することを請う。余は名の実を得ることを喜び、すなわち扁額を書してもってこれを与う。孟子いわく、殀寿貳わず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なりと。蓋し学問の要はここに在り。 明治三十八年四月 侯爵 西園寺公望
[編集] 歴代総長
- 1931(昭和6)年 - 1944(昭和19)年 - 中川小十郎
- 1948(昭和23)年 - 1969(昭和44)年 - 末川博
- 1970(昭和45)年2月-9月 - 武藤守一
- 1970(昭和45)年 - 1978(昭和53)年 - 細野武男
- 1978(昭和53)年 - 1984(昭和59)年 - 天野和夫
- 1985(昭和60)年 - 1990(平成2)年 - 谷岡武雄
- 1991(平成3)年 - 1998(平成10)年 - 大南正瑛
- 1999(平成11)年 - 2006(平成18)年 - 長田豊臣
- 2007(平成19)年 - 川口清史
[編集] 歴代理事・理事長
- 末弘威麿・中川小十郎(二人理事制)
- 初代 池田繁太郎
- 二代 石原廣一郎
- 三代 岡善吉
- 四代 北川敏夫
- 五代 小田美奇穂
- 六代 木村嘉一
- 七代 上西喜代治
- 八代 西村清次
- 九代 川本八郎
- 十代 長田豊臣
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 『立命館百年史』第一巻通史 立命館百年史編纂委員会