宮崎周一
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宮崎周一(みやざき しゅういち、明治28年(1895年)2月6日 - 昭和44年(1969年)10月16日)は、昭和期の日本の陸軍軍人。
長野県出身で兵科は歩兵、陸士28期、陸大39期。最終階級は陸軍中将。
陸大において5年以上も戦史教官を担当した異色の軍人。 日中戦争では陸大教官から第11軍作戦参謀として出征。 太平洋戦争開戦後は、ガダルカナル島の戦いにおける川口支隊の総攻撃失敗後の昭和17年10月6日、第17軍参謀長に就く。 第2師団の総攻撃直前に右翼隊長川口少将が攻撃位置再考を願い出たのは、宮崎参謀長がラバウルより送ったルンガ飛行場の航空写真が影響している。 その後ガ島に進出、作戦指導を行い最後は玉砕を主張するも、百武晴吉第17軍司令官は撤退を決定する。 昭和18年5月11日、参謀本部第4部長として内地に戻り、次いで昭和18年8月25日、陸大幹事に就任。 昭和19年8月25日、第6方面軍参謀長として漢口に赴任。昭和19年12月14日、帝国陸軍最後の参謀本部第1部長に就任する。 第1部長に就任した宮崎部長はすぐさま戦線視察に発ち、マニラでは捷一号作戦失敗を確認し本土決戦準備に入る事を決意する。 宮崎部長主導のもと本土決戦に必要な兵力を参謀本部が見積もったところ、50個師団という驚くべき数になり 陸軍省軍務局との間で論争が起こったが、最終的には3回の大動員で師団44個、旅団16個、戦車旅団6個等合わせて150万人の動員を実行することになった。 この宮崎部長の本土決戦主義は沖縄作戦にも影響し、第9師団の抽出後代わりに沖縄へ充当される予定であった姫路第84師団の派遣を、船舶輸送の不安定を理由に独断で中止してしまう。 戦後は昭和20年9月2日、東京湾に停泊するアメリカ戦艦ミズーリ号の艦上で行われた降伏文書調印式に日本側全権代表団として参加。