玉砕
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玉砕(ぎょくさい)は、大東亜戦争(太平洋戦争)において、外地において日本軍守備隊が全滅した場合、大本営発表に於いてしばしば用いられた語である。出典は『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」。また、明治維新の頃、藩閥政府が天皇を「玉(ぎょく)」と呼ぶようになったが、それによって天皇のイメージに、威厳や崇高さ、潔さなどが付け加えられるという効果があった。そのため、明治以来、「『玉砕』とは、天皇のために潔く死ぬことです」(山科三郎、「『特攻』と『玉砕』について考える」、「部落」54(3)、2002年3月、60頁)ということになる。その態度表明を表す用例には例えば、西郷隆盛による次の詩がある。
幾歴辛酸志始堅 幾たびか辛酸をへて志はじめて堅し、
丈夫玉砕恥甎全 丈夫は玉砕するも瓦全を愧ず。
また、明治19年発表の軍歌「敵は幾万」(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)にも
敗れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身のほまれ
瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず
と歌われた。
なお、玉砕が瓦全より高いとする価値判断は普遍的なものではない。たとえば沖縄における「命どぅ宝」(ぬちどぅたから 命こそが宝、諺「命あっての物種」に近い)という言葉は瓦全的態度を意味すると考えられる。
[編集] 始まり
第二次大戦の中で最初に使われたのは、1943年5月29日、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊約2600名が全滅した時である。「全滅」という言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くし“玉の如くに清く砕け散った”と印象付けようと、大本営によって生み出された言い換えである。
[編集] 主な玉砕戦
- 1943年5月29日:アッツ島守備隊玉砕
- 1943年11月22日:ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕
- 1944年2月5日:マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕
- 1944年2月23日:マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕
- 1944年7月3日:ビアク島守備隊玉砕
- 1944年7月7日:サイパン島守備隊玉砕
- 1944年8月3日:テニアン島守備隊玉砕
- 1944年8月11日:グァム守備隊玉砕
- 1944年9月7日:拉孟守備隊玉砕
- 1944年9月13日:騰越守備隊玉砕
- 1944年9月19日:アンガウル島守備隊玉砕
- 1944年11月24日:ペリリュー島守備隊玉砕
- 1945年3月17日:硫黄島守備隊玉砕
- 1945年6月23日:沖縄守備隊玉砕(指揮官の自決により組織的戦闘終了)
[編集] 本土決戦と一億玉砕
連合国軍が日本本土に接近すると軍部は、「本土決戦」の準備を開始するとともに、1億人の日本の全国民(ただし、この当時の人口である1億人という人口は朝鮮半島・台湾などの日本本土以外の地域居住者(その大半が朝鮮人や台湾人)を含む数字であり、日本人の総人口は7千万人程であった事に留意する必要がある)の全てが玉砕攻撃をする事で連合国軍は恐怖を感じて撤退するだろうし、例え全滅したとしても日本民族の美名は永遠に歴史に残るだろうと主張した(しかし作戦の内容は、上陸用舟艇でやって来る戦車・自動小銃による攻撃に竹槍で立ち向かう・爆弾を抱えて突撃するという、精神論のみ強調した戦略的に無謀なものだった)。だが、1945年8月に入ると原子爆弾の投下やソ連対日宣戦布告などの軍部の思惑を裏切る事態が次々に発生し、遂に日本はポツダム宣言を受諾して降伏をしたため、本土決戦は行われることは無かった。