寮歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寮歌 (りょうか)
目次 |
[編集] 歴史
寮歌を作る風習は、明治時代の旧制第一高等学校 (学制改革後 東京大学教養学部に吸収・消滅) で始まり、次第に他校に広まった経緯を持つ。
[編集] 起源
旧制第一高等学校は明治10年 (1877年) に東京大学予備門として発足した後、明治19年 (1886年) に旧制第一高等中学校、明治27年 (1894年) に旧制第一高等学校と改称した。その間の明治23年 (1890年) 2月、当時の木村校長により寄宿寮の自治制が認められ、以来、生徒らは毎年、自治寮の誕生を祝う 「紀念祭」 (他に第三高等学校のみ、それ以外の学校では 「記念祭」) を開催するようになった。
当初は寮歌を作る風習はなかったが、第5回紀念祭の頃からほぼ毎年、紀念祭のための歌が作られるようになった。多くの寮歌は紀念祭で発表され、爾後、多年にわたって生徒らに愛唱された。後に設置された他校もこの習慣に倣っている。 旧制第一高等学校は全寮制を標榜しており、寄宿寮の歌に限らず 応援歌・部歌なども寮歌 (広義の寮歌) に含めるようになった。後に設置された旧制高等学校でも、「寮の歌」 以外も包括して寮歌と呼ぶ場合が多い。
- 広義の寮歌で最も古い歌は、旧制第一高等学校で明治23年 (1890年) 4月に作られた応援歌 『花は桜木 人は武士 デンコデンコ』 (赤沼金三郎 作詞) とされる。この歌は後に 『端艇部部歌』 となった。
- 狭義の寮歌で最も古い歌は、旧制第一高等学校で明治25年 (1892年) に作られた寄宿寮歌 『雪ふらばふれふらばふれ』 であるが、作詞者は生徒ではなく、落合直文教授であった。
初期の寮歌は、軍歌等のメロディーを借りて生徒が作詞したものが多かったが、明治33年 (1900年) 以降は、外部によらない、生徒自らが作曲した歌も増えていった。
[編集] 伝承
寮歌の歌詞は、文書で後輩へ伝承されることもあったが、メロディーは口伝であった。楽譜はほとんどの生徒には読めなかった上、音楽的に歌うことを軽蔑する風潮 (バンカラの一種) すらあったとされる(そもそも文化系の活動自体軽視されていた)。多くの寮歌は原曲と異なる、より歌いやすい形で伝承された。
特に大正時代以降、明治時代に長調で作曲された多くの寮歌が、短調で歌われるようになった。昭和時代に入ってからは、異様に遅く引き伸ばして歌う風習 (長嘯) も生まれた。 卒業生がさらに他の諸学校へ寮歌を伝えた例も多く、全国津々浦々の学校の歌に寮歌の影響を見ることができる。その多くは原曲とは異なる伝承であるが、中にはほぼ原曲の姿を残しているものもある。
一方、学校の中だけではなく、一般に広まった寮歌もある。旧制第一高等学校の場合、紀年祭で寮歌の楽譜を一般人に販売していたため、楽譜の読める女学校の生徒や演歌師らの間に寮歌が知られるようになった。その中でも特にヒットしたのは、
- 『春爛漫の花の色』 (明治34年 第11回紀念祭西寮寮歌。矢野勘治 作詞、豊原雄太郎 作曲。)
- 『アムール川の流血や』 (明治34年 第11回紀念祭東寮寮歌。塩田環 作詞、栗林宇一 作曲<永井建子作曲説もある>)
- 『嗚呼玉杯に花うけて』 (明治35年 第12回紀念祭東寮寮歌。矢野勘治 作詞、楠正一 作曲。)
等の寮歌である。これらの寮歌は、学校の中での伝承とは別の形で一般に広まっていき、革命歌、労働歌、軍歌などにメロディーが借用されたりした (特に 「アムール川の流血や」 の借用率が高かった)。こういった外部の借用に対しては、著作権が云々とかそういうことは特にはなく、逆に自分たちの歌がそれほどまでに流布していることを得意に思っていたと思われる。この辺りに、旧制高校生の独自のおおらかさを見ることができるのだろうか。
今日、旧制高等学校の同窓会が発行した寮歌集の楽譜と、一般に市販されている音楽書籍の楽譜とが異なるのは、様々に異なる伝承の結果である。
[編集] 終焉
寮歌は大正時代、高等教育機関増設と相俟って全盛を極めたが、第二次世界大戦に前後して寮の自治が制限され、歌うことを禁止された寮歌も出るなどして、衰退していった。戦災で多くの学校が校舎・寮を失い、さらに戦後復興のさなかの昭和25年 (1950年) 3月、日本人自らの手で旧制高等学校は廃止されるに至った。
形式上旧制高等学校を継承した学校 (主に新制大学) に引き継がれた寮歌も多いが、これらの学校でも、寄宿寮の衰退・廃止が進んだこともあり、寮歌は体育会系の学生を中心に細々と伝承されているに過ぎない。 (例外的に、北海道大学 恵迪寮では平成18年度現在でも寮歌の新作を続けている。)
[編集] 寮歌の分類
[編集] 学校の範囲
寮歌という分野がどこまでを指すものか、明確ではない。一般には旧制高等学校で生徒によって歌われたもの、という認識がされているが、寮外で作られた歌も歌われていた事実を考えると、これは少々曖昧なものである。
というのは、この認識では旧制高等学校以外の高等教育機関で歌われた寮歌はどうなるのか?という問題が生じる。例えば日本寮歌祭においては、旧帝国大学予科の他、三商大・旅順工科大学の予科を含めた 42校を旧制高等学校とし、陸軍士官学校、海軍兵学校、東京高等師範学校、早稲田高等学院他を同盟校として扱っていた。ところがこれらの学校以外に大学予科、専門学校は複数あったにもかかわらず、その中から一部の学校のみを同盟校として扱い寮歌として扱うことに、何ら合理的な根拠は見いだせないのである。
したがって、大前提となる 「旧制高等学校で」 の部分について、改めて再検討を加える必要がある。即ち、純粋に旧制高等学校のみにするのか、あるいは旧帝国大学予科を含める38校とするのか。それとも白線関係者においては意に添わないのかもしれないが、専門学校を含めた旧制高等教育機関全般とするか、であろう。(白線とは、旧制高等学校の制帽に付されていた二条または三条の白線のことであり、転じて、象徴的に旧制高等学校を表す。)
[編集] 歌の範囲
寮歌の分類だが、上記の対象範囲によらず、「生徒に歌われていた歌」、というのはおおむね変わりはないと思われる。この 「生徒によって歌われていた」、というのは 「生徒により作られ」、とは意味合いが異なる。なぜなら教授や、外部の手による歌も散見されており、単純に 「歌われていた」、とした方が明解になるためである。
ところがこの場合、少々やっかいな問題も生じる。つまり元々世間で歌われていた歌を学校内に持ち込んだものはどうなるのかという問題である。これはストーム、コンパの際に歌われていた歌に見られる。
分類上は懇巴の歌として一括できるのだが、それを寮歌の範疇に含めるのか、それとも別に分類するのか、ということである。
[編集] 歌の分類
寮歌 (広義の寮歌) そのものはおおむね以下のように分類できよう。なお序列は便宜、第一高等学校寮歌集の例に範をとった (注、一高に校歌は存在しない)。
- 校歌
- 寮歌
- 記念祭歌
- 部歌
- 応援歌
- 頌歌
- その他
[編集] 歌詞の特徴
寮歌の歌詞は、当時の教育事情を反映して、そのほとんどが文語体である (ただし、部歌や応援歌の中には、くだけた口語体の歌も多く見られる)。七五調の詩が最も多いが、そのほかの詩形も存在する。
「漢詩の影響が強い」 とされるが、実際には土井晩翠の詩を経由した引用が多い。土井晩翠の詩集を見ると、そこかしこに寮歌の"部品"が散在している。明治期の寮歌は、当時最新の文学であった晩翠の詩と、若人の情熱とが合体して生み出された産物、と言えるだろう。
この他、長い修飾関係を持つことも指摘できる。すなわち 「嗚呼玉杯」 であれば、「嗚呼玉杯」 以降 「夢に耽りたる」 までが 「栄華の巷」 にかかり、それを 「低く見」る五寮の健児の意気は高い、という内容である。これは欧文体の影響は考えられないだろうか?
大正期以降においては、今日見ても違和感のないような口語体のものも見受けられる。また本歌取り --- と書けば上品だが、口悪く書けば元ネタ有り --- も数多く見られる。著名なところでは旧制大阪高等学校の 「嗚呼黎明」 は革命歌 「嗚呼革命」 からアイデアを借用したものといわれる。
[編集] 曲 (メロディー) の特徴
曲としては、所謂ピョンコ節といわれる節回しが多い。また少なからず短調化して歌われた。純粋に曲として捉えた場合明らかに稚拙なものもある --- ここでは指摘しないが --- しかしながら、特に音楽教育を受けたわけではない生徒が作曲したものであることは考慮すべきであろう。昭和期になると、曲としても完成度の高い曲が出現している。
[編集] 寮歌の数
旧制高等学校の寮歌だけでも、約2500曲あるとされる。寮歌の影響を受けた他の諸学校の歌も含めると、3000曲以上はあると考えられるが、この調査を完遂した人はまだおらず、今後もおそらく不可能に近い。
なぜなら旧制高等学校全38校のうち、今現在も自校の寮歌数が確定していない高等学校が松江高等学校など数校あること --- これらの学校はそもそも同窓会で寮歌集すら出されていない ---、また多くの高等学校で、戦後作られた寮歌が全く未調査になっていることが原因である。特に戦後寮を新設した学校に、未発見の寮歌が存在する可能性は高い。よってこのまま未発見のまま消えていくであろう寮歌はおそらく存在するものと思われる。事実、数年前、戦後特設高校の秋田高等学校の寮歌が発見されたことを考えれば、早急に調査されるべきであるが、現状の寮歌祭の状況を鑑みた場合(注)、おそらく困難であろう。
注 一部の寮歌祭にみられるように、其々学士会、何々白線会として完全に旧制高校と帝大予科以外を排除する向きがある。即ち寮歌祭の趣旨の一つであった保存継承というのが失われており、単なる同窓会に終始している弊がある。
[編集] 代表的な寮歌
ごく一部のみを挙げる。各学校の代表的な寮歌は、後述の書籍や 「寮歌の一覧」 を参照のこと。
第一高等学校 (学制改革後 東京大学教養学部に吸収・消滅)
- 『春爛漫の花の色』 (明治34年 第11回紀念祭西寮寮歌。矢野勘治 作詞、豊原雄太郎 作曲。)
- 『アムール川の流血や』 (明治34年 第11回紀念祭東寮寮歌。塩田環 作詞、栗林宇一 作曲<永井建子作曲説もある>)
- 『嗚呼玉杯に花うけて』 (明治35年 第12回紀念祭東寮寮歌。矢野勘治 作詞、楠正一 作曲。)
- 『天 (そら) は東北 山高く』 (明治38年 校歌。土井晩翠 作詞、楠見恩三郎 作曲。)
- 『紅もゆる丘の花』 (明治37年 逍遥の歌。澤村胡夷 作詞、K.Y.作曲。)
- 『琵琶湖周航の歌』 (大正8年 小口太郎 作詞、吉田千秋 原曲。)
第四高等学校 (学制改革後 金沢大学法文学部、理学部、教養部に吸収・消滅)
- 『南下軍の歌』 (明治40年。高橋武済 作詞、簗瀬成一 作曲。)
山口高等学校 (明治38年 山口高等商業学校に改編、学制改革後 山口大学経済学部に改組。鳳陽寮は昭和48年まで山口大学経済学部鳳陽寮として亀山キャンパスに存続していたが、吉田キャンパスへの統合移転により廃止。しかしながら、鳳陽寮歌は経済学部を中心に現在の学生にまで歌い継がれている。)
- 『花なき山の』(鳳陽寮歌)明治32年 (1899年)。佐々政一 作詞・作曲。日本最古の寮歌のひとつ。
松本高等学校 (学制改革後 信州大学文理学部(現、人文学部、理学部、経済学部)に吸収・消滅。しかし思誠寮は信州大学文理学部思誠寮→信州大学思誠寮と名称を変えながら存続)
- 『春寂寥』 (大正9年。吉田実 作詞、浜徳太郎 作曲。)
- 『あゝ青春』(大正10年。吉村武生 作詞、片山尚 作曲。)
北海道帝国大学予科 (学制改革後 北海道大学教養学科 (=現高等教育機能開発総合センター) に吸収・消滅。しかし恵迪寮は予科→教養部→学部生と入寮対象を変えながら存続)
- 『都ぞ弥生』 (明治45年恵迪寮歌。横山芳介 作歌、赤木顕次 作曲。)
- 『嗚呼黎明は近づけり』 (大正12年 全寮歌 沼間昌教 作詞、吉田丈二 作曲)
[編集] 書籍
- 『日本寮歌集』 (日本寮歌振興会発行、1992年10月 新装版、国書刊行会 刊。ISBN 433603320X)
- 『日本寮歌大全』 (旧制高等学校資料保存会編、1996年2月、国書刊行会 刊。ISBN 4336037892)
- 『平成の愛唱寮歌八十曲選』 (尾崎良江著、1997年11月、国書刊行会 刊。ISBN 4336040443)
- 『北大寮歌集』 (北大恵迪寮自治会寮歌普及委員会編、非売品だが北大生協で購入可)
- 『旧制高校物語』(秦郁彦著、2003年12月、文芸春秋、ISBN 4166603558)文中寮歌に関する記述あり。新書なので簡単に入手できる。
- 『寮歌は生きている』 古書籍店その他で入手可能。資料としての評価は厳しくなるが、取りあえず収録された曲数だけは最多である。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 信州大学思誠寮(旧制松本高等学校思誠寮): 信州大学思誠寮
- 『四高寮歌のページ』: http://www.kanazawa-u.ac.jp/grad/ryouka.htm
- 北海道大学寮歌祭
カテゴリ: 音楽関連のスタブ | 寮歌 | 学校歌 | 高等教育の歴史 (日本)