学制改革
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学制改革(がくせいかいかく)とは、学校の制度、特に学校の種別体系を改革することである。日本では、おおむね大東亜戦争(太平洋戦争)、無条件降伏後連合国軍最高司令官総司令部の占領下、1946年3月5日と7日の第一次アメリカ教育施設団の調査結果によりアメリカ教育使節団報告書に基づいた教育課程の大規模な改編のことを指す。
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[編集] 学制改革とは
戦前よりの懸案を解決しつつ、戦後の新社会に適した学制に改編することを目的として、南原繁・東京帝国大学総長らにより推進された教育制度の改革であった。主な内容は複線型教育から単線型教育の6334制への変更。義務教育の9年への延長である。複線型教育に主に弊害として指摘されていた、階層に応じた教育構造であることを以って封建制の残滓とみなしその除去、及び教育の機会の均等(形式的平等 ただし日本においては“平等”(結果の平等及び実質的平等)という受容が一般的であったが)を主目的とするものであった。さらにGHQ、特にその内部の先鋭的進歩的集団であるニューディーラーの後押しもあり、単線型教育を推進するため、小学区制・男女共学・総合選抜[1]の三点モデルも打ち出された。
[編集] 旧学制から新学制への移行措置
学制改革とはいっても現に在学している生徒がいるので、いきなり学校の変更は混乱を招く。そのためさまざまな移行措置がなされた。1947年から1950年頃までは旧制と新制の学校が混在した。
[編集] 旧制中等学校→新制高校
- 国民学校を1946年3月までに卒業する者は旧制で進学した。1947年3月以降に卒業した者から全員新制中学校に進学した。
- 同年4月、旧制中等学校(旧制中学校、高等女学校、実業学校)には暫定的に併設中学校が設置され、2,3年生が併設中学校の生徒となり、1年生の募集を停止した。
- 1947年度の5年生の希望者は一旦旧制中等学校を卒業して新制高校の3年生となった。
- 旧制高校尋常科は戦争中募集を停止していたが東京高等学校は1946年度のみ募集を再開した。翌年また募集を停止したので在学生は宙に浮いてしまった。結局、1948年1、2年生を募集し、在学中の3年生と合わせて東京大学附属中学校(新制)となった。現在の東京大学教育学部附属中等教育学校である。
- 旧制中等学校は、太平洋戦争終戦後に連合軍総司令部の占領統治下における民主化政策に従って定められた学校教育法の元で、新制の高等学校へ転換されたが、その際公立校の多くは共学化された。しかし一部(埼玉県など)では共学化は必ずしも徹底されたわけではなく、また私学においてはその大半は、男子もしくは女子のみ行う高等学校に転換が図られている。また、山口県などでは、新制高等学校へ転換時に、隣接する旧制中学校と統合して転換し現在までいたるところや、大阪府では、単独で転換されるも、隣接する旧制中学校と生徒・教員の相互交流(入れ替え)を行ったところなどがある。
[編集] 旧制高校等→新制大学
- 旧制高校、旧制専門学校、師範学校、高等師範学校、大学予科の募集は1948年までであった。
- ただし、3年で卒業したのは1947年の入学者が最後である。1948年の入学者は1年で「修了」というかたちで学籍が消滅して新制大学を受験しなおさねばならなかった。
- 1947年度の旧制中学の卒業者、4年修了者の大学へのコースは旧制高校経由と新制高校経由の2つがあった。
- 1949年、新制大学の設置にともない、旧制高校、旧制専門学校、師範学校は新制大学に包括され、「金沢大学第四高等学校」「滋賀大学彦根経済専門学校」、「北海道学芸大学北海道第二師範学校」「千葉大学東京医科歯科大学予科」というような名称になった。この状態が旧制学校の最後の卒業生が卒業するまで続いた。
- 東京大学駒場キャンパスでは第一高等学校と教養学部が同居して旧制と新制の学生が対立する光景も見られた。
- 旧制大学の入試は1950年度が最後であった。しかしその後も「白線浪人」と呼ばれる旧制高校卒の過年度生が多数いたので編入試験が行われた。
- 1949年から1954年に新制大学入学者が医歯学部に進学するためには、新制2年制理学部等の「進学過程」卒業生が、さらに医学部入試を受験しなければならなかった。このことが医歯系進学に大混乱をもたらし、1955年にほとんどの大学で医歯学部に自動的に進学できる医(歯)学部進学課程が設置されることになった。
[編集] その他
高度成長期以降、旧制名門学校出身の有力経営者や実力者のコネを得ることは、就職活動のキーポイントとなったが、1990年後半以降は、旧制学校時代の卒業で、定年退職者や物故者が増加したため、新卒就職者の旧制名門学校出身の有力経営者や実力者のコネを得ることが困難になった。このことは、旧制諸学校の実績や歴史が薄らぐ一因ともなっている。