小畑敏四郎
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小畑 敏四郎(おばた としろう、明治18年(1885年)2月19日 - 昭和22年(1947年)1月10日)は日本の陸軍軍人。陸軍中将。高知県出身。いわゆる皇道派の中心人物とされる。妻は第24代衆議院議長元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。
[編集] 来歴・人物
明治18年(1885年) 土佐藩士小畑美稲の三男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎。明治37年(1904年)陸軍士官学校第16期優等卒。少尉任官後近衛歩兵第一連隊、歩兵第四九連隊、真岡守備隊長を経て、明治44年(1911年)陸軍大学校第23期優等卒。大正2年(1913年)大尉任官、参謀本部勤務。大正4年(1915年)ロシア駐在、第一次大戦下のロシア軍に従軍。軍務局課員、参謀本部員を経て、大正9年(1920年)ロシア大使館付駐在武官。しかし日本軍がシベリア出兵中であっために入国できず、ベルリンに滞在。
この間、大正10年(1921年)10月頃、陸士同期である永田鉄山、岡村寧次と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン・バーデンにおいて、陸軍の薩長閥除去を目指す「バーデン・バーデンの密約」を行なったという。大正11年(1922年)参謀本部員、大正12年(1923年)中佐に進級、陸大教官。大正15年(1926年)参謀本部作戦課長。昭和2年(1927年)大佐に進み、岡山歩兵第一〇連隊長。昭和5年(1930年)陸軍歩兵学校研究部主務。陸大教官を経て、昭和7年(1932年)再び参謀本部作戦課長。同年少将任官し、参謀本部第三部長。昭和8年(1933年)近衛歩兵第一旅団長。陸大幹事から校長を経て、昭和11年(1936年)中将。同年予備役編入。日中戦争にあたって留守第十四師団長となったが、健康上の問題で召集解除となった。東久邇宮内閣で国務大臣を務めた後、昭和22年(1947年)1月10日死去。
[編集] 伝記
- 「作戦の鬼小畑敏四郎」須山幸雄著、芙蓉書房、昭和53年(1978年)