小鴨由水
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小鴨 由水(こかも ゆみ、本名:松永 由水(まつなが ゆみ)、1971年12月26日 - )は日本の元女子マラソン選手。兵庫県明石市出身。現在二児の母である。
兵庫県立明石南高等学校卒業後、1990年ダイハツ工業に入社。
当時はまったく無名のランナーであった。1992年の大阪国際女子マラソンで初マラソン。これはもともと、バルセロナオリンピック代表を目指していた、チームメイトの浅利純子のペースメーカー役という意味合いもあっての出走だった。
ところが、小鴨は関係者の予想外のペースで走り抜ける。36Km過ぎまで小鴨と浅利は先頭で併走していたが、その後浅利が脱落。そして浅利と同じくバルセロナ五輪女子マラソン代表選出を狙った、松野明美(彼女も初マラソン)のレース後半の追い上げも退けて優勝を果たした。大阪国際女子マラソンでは日本人初の優勝者、しかもタイムの2:26:26は日本最高記録で女子の初マラソン世界最高記録という快挙であった。20歳1ヶ月で一躍日本女子マラソン界のトップに立ったのである。
初マラソンとはいえ、文句のない成績からバルセロナオリンピックの代表に選ばれる。それでも、想定外ともいえる彼女の代表選出は、間接的に松野明美と有森裕子の代表争いという騒動を呼ぶきっかけともなった。小鴨本人自身も「まさか自分が五輪代表選手になれるとは夢にも思わなかった」と、当時は嬉しさよりも戸惑いの方が大きかった、という。
その後小鴨は、五輪独特のプレッシャーからか、本番に向けたトレーニングで体調を崩してしまった。一時は五輪代表辞退、補欠代表の谷川真理が繰り上がるのでは、という報道も有ったが、ダイハツ側がそれを否定し強行出場となる。しかし、小鴨の体調は万全ではない状態でスタートラインに立たざるを得ず、結局オリンピック本番では2:58:18の29位に終わり、完走するだけで精一杯だった。翌1993年に小鴨は「仕事で走るのが嫌になった」と語り、ダイハツを退社した。
1994年に龍谷大学の短期課程に入学。いったん陸上からは完全に遠ざかっていたが、1996年、福岡県の岩田屋陸上部に入部する。重松森雄監督の指導を受けるが、1999年に廃部となり岩田屋を退社した。この間に結婚、松永姓となる。2000年の大阪国際女子マラソンで8年ぶりにフルマラソンに復帰、3時間台の記録ながら完走した。その後2002年の同大会では出産後初のフルマラソンを走った。
現在は福岡市障害者スポーツセンター、老人福祉センター、心身障害者福祉センターの指導員として勤務している。また、有森裕子が設立したライツスポーツネットワークのメンバーとしてスポーツイベントでの講師も行っている。
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