少弐資元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
少弐資元(しょうにすけもと、延徳3年(1491年) - 天文4年12月29日(1536年1月22日))は少弐氏第十六代当主。少弐政資の子で、少弐冬尚・千葉胤頼・少弐政興の父。
1497年、父政資と兄高経が周防の大内氏に攻め滅ぼされ非業の死を遂げたのち、旧臣たちや豊後大友氏の後押しを受けて、少弐氏を再興する。 大内義興の侵攻をたびたび受けるが、家臣の龍造寺家兼らの協力もあって、それを退けた。しかしこのため、龍造寺氏の力が台頭することにもなり、少弐氏の力は次第に衰退してゆく。また、資元も度重なる大内氏の侵攻に耐えられなくなって遂に大内義隆と和議を結ぶが、この和議は謀略で、資元は義隆に領地をすべて取り上げられてしまった。このため資元は1535年、自害して果てた。子の冬尚は蓮池城の小田資光の下に落ち延び、少弐氏の血脈を保った。
なお、資元最期の地となった梶峰城は、父政資が自決をした場所でもある。
|
|