山口文象
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山口 文象(やまぐちぶんぞう、男性、1902年1月10日 - 1978年5月19日)
1930年代から60年代にかけて活躍した、近代日本建築運動のリーダーのひとりであり、モダニズム建築デザインと同時に和風建築の名手であった建築家。
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[編集] 経歴
東京・浅草生れ。祖父は宮大工、父は清水組(現・清水建設)の大工棟梁。1918年、東京工業高等学校附属職工徒弟学校(東京工業大学の前身)を卒業し、父の仕事を継ぐべく清水組に入社、名古屋の工場や銀行の工事現場に配属された。しかし建築家に憧れ、1920年に退社して東京に戻り、逓信省営繕課の製図工になる。
ここで山田守、岩元禄たちと出会い才能を認められ、1923年、近代建築運動グループ・分離派建築会の一員となり、建築家への道を歩みだす。関東大震災直後の1923年10月、製図工仲間たちとともに創宇社建築会を結成して新たな建築運動を展開し、近代建築運動に大きな影響を与える。
1924年、内務省に設けられた関東大震災からの復興を担当する帝都復興局の技師になり、主に震災復興の橋梁デザインに関わった(清洲橋、数寄屋橋、浜離宮南門橋など)。日本電力の嘱託技師も兼務し、富山県の庄川や黒部川のダムや発電所の建築や土木デザインに関わった(黒部第2発電所、小屋平ダムなど)。
竹中工務店、石本喜久治建築事務所を経て、1930年12月、シベリア経由で渡欧。その目的は、日本電力が建設していた黒部川第2発電所関係のダムに関する水理技術調査であった。当時バウハウスを辞してベルリンにいた建築家ワルター・グロピウスのアトリエで働きつつ、ダム関係の調査、ベルリン在住の左翼系日本人たちと交流した。
1932年に帰国して山口蚊象建築設計事務所を主宰。日本歯科医学専門学校付属医院を設計し(1934年竣工)、最先端のモダニズム建築として一躍注目され、1938年、黒部第2発電所関連の作品を発表して建築家として確固たる地位を築いた。番町集合住宅や小林邸などのモダニズム建築を発表した。その一方、林芙美子邸や自邸など和風デザイン住宅にも秀作を残したが、こちらは積極的には公表しなかった。戦中は各地の軍需工場に動員された工員たちの木造宿舎群を、ドイツで学んだジードルングになぞらえて数多く設計した。
戦争による逼塞の後、1949年に猪熊弦一郎と企画して、美術団体の新制作協会に谷口吉郎、前川国男、丹下健三等とともに建築部を設立し、戦後の活動に踏み出した。1951年、三輪正弘、植田一豊とRIAグループと称して集団建築設計方法の模索ののち、1953年に協同設計組織として「RIA建築綜合研究所」を設立し、戦後のモダン住宅設計をリードし、劇団・新制作座文化センター、朝鮮大学校校舎、神奈川大学などの禁欲的なデザインで注目を集めた。RIAは現在は「(株)アール・アイ・エー」と改称して、総合的な建築設計と都市計画コンサルタント組織となっている。
[編集] 山口文象の土木デザイン
日本では建築家が橋やダム等の土木構築物のデザインにかかわる例は、それほど多くはない。明治期では東京・日本橋の麒麟の彫刻、欄干、照明器具等の装飾的デザインに建築家・妻木頼黄がかかわっている。その後は関東大震災の復興事業における橋梁デザインに建築家・山田守が逓信省から内務省帝都復興局に移って組織の一員として担当している。
この山田の引きで山口文象は復興局の嘱託技師となる。橋の欄干、照明器具等の装飾的なデザイン(図面にサイン有り)や、橋の完成予想の透視図を描いていること、橋梁技師である成瀬氏あるいは山口本人の証言等から、橋梁デザインに関わったことは確かである。なお、この仕事は創宇社メンバーのアルバイトでもあった(竹村新太郎の話)。
御茶ノ水の聖橋は山田守のデザインであることは、その独特のアーチの形態からも分かるが、この計画の透視図を山口文象が描いている。隅田川の清洲橋、厩橋、言問橋等の透視図も描いているから、土木構造物を透視図に描いて意匠を検討する役割を持っていたかもしれない。しかし、山口の話では、清洲橋の橋げたとそこからはねだす歩道部分の構造について、その見かけを薄く見せるデザインに腐心したというから、土木エンジニアとの共同作業もあったことがうかがえる。山口のデザインした橋に数寄屋橋があり、その欄干の丸みが特徴であり、NHKラジオドラマ「君の名は」の映画にも登場し、やはり山口が関係した朝日新聞社社屋(竹中工務店・石本喜久治設計、現存しない)と好一対の風景であったが、東京オリンピック前の河川埋め立てで消えた。古典的な意匠としては、浜離宮南門橋が今もある。
山口が土木デザインでその力量を発揮したのは、日本電力の仕事で富山県の庄川と黒部川でのダムや発電所であった。特に黒部川第2発電所関係では、発電所はもちろんのこと、対岸からこの発電所に渡る鉄橋、上流部の小屋平ダムと沈砂池など、一連の建築と土木デザインを真正面から行っている。小屋平ダムについては日本電力から渡欧の費用が出されて、1931年のベルリン滞在時にカールスルーエ工科大学にダム水理の権威者を訪ねて調査をしている。黒部等での山口の土木デザインには装飾的なものは一切なくて、土木構造物そのもののダイナミックで均整のとれたプロポーションを追っており、何枚ものデザインを試みたスケッチがある。なお、箱根の湯元にも小さなダムをデザインしており、今も現存する。
[編集] 主な計画・設計・デザイン
- 小泉八雲記念館(松江市 1933年) 現存しない(現在の記念館は1984年改築)
- 関口邸茶席・会席(鎌倉市 1934年) 現存
- 日本歯科医学専門学校付属医院(千代田区 1934年) 現存しない
- 山田智三郎邸(鎌倉市 1935年)現存しない
- 小林邸(大田区 1936年)現存しない
- 番町集合住宅(千代田区 1936年)現存しない
- 山形梅月堂(山形市 1937年)現存
- 日本電力黒部川第2発電所・小屋平ダム(宇奈月町 1936~38年) 現存
- 山口文象自邸(大田区久が原 1940年) 現存
- 林芙美子邸(新宿区 1941年) 現存(現・林芙美子記念館)
- 相模湖芸術村構想(津久井 1945年) 猪熊弦一郎等と計画したが実現せず
- 高松近代美術館(高松市 1949年)現存しない
- 久が原教会(大田区 1950年)現存しない(現・久が原教会は1962年改築=RIA設計)
- ローコストハウス(新制作展出品 1952年) 現存しない
- 神奈川大学校舎・図書館・本館等(横浜市 1954年~) 一部現存
- ニエ・アルの碑(藤沢市 1955年) 現存
- 朝鮮大学校校舎(小平市 1959年) 現存
- 新制作座文化センター(八王子市 1964年)現存
- 是の字寺(岡崎市 1971年) 現存
- 町田郷土資料館(町田市 1975年) 現存(現・町田市立博物館)
[編集] 名前
出生時の戸籍名は山口瀧蔵。8歳で母方叔母の岡村家の養子になり、岡村瀧蔵となったが通称は岡村蚊象(ぶんぞう)と名乗った。渡欧直前に山口姓に戻り山口蚊象(戸籍名は山口瀧蔵)としたが、1942年から山口文象と改め、1957年に戸籍名も山口文象とした。