モダニズム建築
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モダニズム建築(Modernism Architecture)は、19世紀以前の様式建築を批判し、市民革命と産業革命以降の社会の現実に合った建築をつくろうとする近代建築運動により生まれた建築様式。新しい建築を求めて各国でさまざまな試行錯誤が繰り返され、国を超えて大きな運動になっていった。モダニズム建築(近代主義建築)は、普遍性・国際性を主張するが、いうまでもなくその表現には幅があり、「まったく同じ様式が世界中に普及した」訳ではない。
モダニズム建築は20世紀になって突然生まれたものではない。建築を理念によって支えるという点は新古典主義建築において萌芽したものであるし、要求に則した建築を機能的に設計するというプロセスは、用途や要求などの諸要素に対応して様々な様式を採用するという19世紀の歴史主義建築の手法においてもみられる現象である。むしろモダニズム建築は、それまでの建築思想を拡張し、再構成することによって成立したと言える。
単に装飾を省略するだけではモダニズム建築は成立しない。18世紀後期に相対化された歴史的様式の代わりに、普遍的な「空間」の概念が導入されている。
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[編集] 成立の背景
中世ののち、ヨーロッパでは、古代ギリシャ・ローマに起源を持ち、ルネサンス建築で復興された建築様式が長く主流とされてきた。建築家は過去の歴史的様式を深く理解し、芸術的な作品を造ることが求められてきた。しかし、鉄・コンクリートといった新しい素材が使われるようになり、また社会生活も多様となって建築に対する様々な要求が起こってくると、過去の様式を桎梏として、そこから離脱しようという試みが行われるようになってきた。
建築におけるモダニズムの起源は英国のアーツ・アンド・クラフツ運動とされることが多い。運動の中心者、ウィリアム・モリスは産業革命により大量生産の製品があふれる状況を批判し、生活と芸術の統一を主張した。モリスの邸宅としてフィリップ・ウェブが建てた「赤い家」(レッドハウス)は煉瓦造で中世風の外観を持つ。一見、中世への回顧的な装いであるが、素材とデザインを統一させた中に美を表現しようとする合理的、革新的な要素を持っていた。
フランスではアール・ヌーヴォーの建築が過去の装飾を否定し、植物からモチーフを取った曲線的、自由なデザインを用いた。 ドイツのユーゲント・シュティール、オーストリアのゼツェッシオン(ウィーン分離派)なども、国や作家の個性により多様ではあるが自由な装飾を用い、同様の傾向を示している。ウィーン分離派の中心人物オットー・ワーグナーは「芸術は必要にのみ従う」として、機能性、合理性を重視した近代建築の理念を表現した。
ワーグナーの影響を受けたアドルフ・ロースはさらに「装飾は罪悪である」と宣言し、装飾そのものを否定した。建築は用途や素材に従って設計するべきであり、装飾を付けるのは原始人の刺青のようなもので、文化の程度が低いことを示すものだと主張した。この宣言は後の世代に大きな影響を与える。
[編集] モダニズム建築
アーツ・アンド・クラフツに影響を受けたドイツ工作連盟の活動と、芸術学校バウハウスの開設がモダニズム建築の展開のうえで大きな推進力になった。ドイツ工作連盟によって産業と芸術の統一が意図され、ペーター・ベーレンスのAEGタービン工場(1910年)が新しい建築のあり方を提示した。ベーレンスの元で学んだワルター・グロピウスは、バウハウス(1919年)の教育において建築を中心にした総合芸術を目指した。
1927年の国際連盟コンペではル・コルビュジエの計画案がいったん当選したが、ボザール流の旧式な建築家の反対により当選取消しとなった。これをきっかけに翌年CIAM(Congrès International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)が開催され、グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエら24人の建築家が参加した(CIAMは1956年まで各国で開催された)。CIAMを中心にした建築家たちの主張と実践により、新しい建築の理念が確立され、これらの動向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が国境を超えていった。当初は機能主義建築、合理主義建築、あるいはインターナショナル・スタイル建築として主張されたが、これらを総合してモダニズム建築という。また、モダニズム建築を主張する運動を近代建築運動という。
[編集] 特徴
ル・コルビュジエは、「新しい建築の5つの要点(俗にいう近代建築の五原則)」としてピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面を挙げたが、これらは鉄筋コンクリート造や鉄骨造という新しい技術によって、石造・煉瓦造が持っていた制約から自由になったことで可能になったものである。モダニズム建築の多くは装飾のない直線的構成を持つ立方体を特徴とし、俗に「豆腐のような」「白い箱」と形容される。機能的・合理的で、地域性や民族性を超えた普遍的なデザインとされた。
またモダニズムの建築家は社会改革にも深い関心を持ち、ドイツのジードルンク(公営集合住宅)建設や、都市問題解決のための提言として(例:ル・コルビュジエのパリ改造計画=輝く都市)などの活動を行った。
しかし20世紀半ばになると、装飾のない建物が一般的になり、近代建築運動は次第に革新性を失っていった。(CIAMの崩壊=1956年が一つの指標になるだろう)
1954年、ジークフリード・ギーディオンが新地方主義の構想を発表した。モダニズム建築がアジア・アフリカ各国にも普及するに従い、風土への適用が課題となったものである。ル・コルビュジエのチャンディーガルも新地方主義の実践の一つといわれる。
[編集] モダニズム建築の代表作品
- フランクリン街のアパート(オーギュスト・ペレ、フランス、1903年) 鉄筋コンクリートによる先駆的作品
- AEGタービン工場(ベーレンス、ベルリン、1910年)
- バウハウス校舎(グロピウス、デッサウ、1926年)
- バルセロナ・パヴィリオン(ミース、バルセロナ、1930年)
- サヴォア邸(ル・コルビュジエ、1931年)
- ユニテ・ダビタシオン(ル・コルビュジエ、マルセイユ、1952年)
- 国連本部ビル(オスカー・ニーマイヤーほか、1952年)
- レバーハウス(SOM 1952年)
- シーグラムビル(ミース、ニューヨーク、1958年)
- ブラジリアの都市計画・建築群(オスカー・ニーマイヤー、1956-1960年)
[編集] ポストモダン
モダニズム建築の理念が普及し、白い箱のような装飾の無い建物や高層ビルの並ぶ街並みが生れたが、こうした都市・建築は合理性・機能性を重視するあまり、味気なくなってしまったのではないか、という批判が起こった。
1972年にはロバート・ヴェンチューリらが著書『ラスベガス』(Learning from Las Vegas)を出版し、モダニズムの理想は一般の人々のためには高尚過ぎると批判、むしろ猥雑で張りぼてのようなラスベガスや全米のロードサイドなどの日常的風景などを観察してその建築的シンボルを学ぶべきだと提唱、論議を呼んだ。「近代建築の失敗」の象徴とされたのが、ミズーリ州セントルイスのプルーイット・アイゴー団地(ミノル・ヤマサキ設計、1954年)であった。これはスラムを一掃した後の23haの敷地に建設された高層の集合住宅団地であるが、低予算で建設されたこと、低所得者層が主に住んだことなどで次第にスラムと化し、犯罪の巣窟となってしまった。荒廃のため1972年に取壊されたが、その爆破シーンは人々にモダニズムの終焉を印象付けた。
モダニズムを乗り越えようとするポスト・モダニズム(ポストモダン)が提唱され、モダニズム建築によって否定された装飾や象徴性の復権などが唱えられた(参考:チャールズ・ジェンクス『ポスト・モダニズムの建築言語』1978年)。かつてモダニズム建築の旗手であったフィリップ・ジョンソンのAT&Tビル(古代ギリシアの神殿建築に由来するぺディメント=三角破風を持つ)や、丹下健三の東京都庁舎(ゴシック教会堂の形態を思わせる)も、ポストモダンの作例とされる。
しかし、ポストモダンの動きには建築構造の工夫や素材の研究など、建築や空間を改善・改革する実質的・実験的な要素がなく、表層だけをにぎやかにしたものだという批判もある。ポストモダンはやや皮相なものに留まり、1980年代の一時の流行の感が強い。1990年代には新素材の利用やコンピュータを使った構造計算による大胆なフォルムが可能になる一方で、モダニズムの見直しも進み、機能性や簡素さが重要視されるようになり、モダニズムへの先祖帰りのような現象も起こった。モダニズムを超える新しい原理は未だ確立していないと考えられる。
[編集] 日本における展開
日本にも明治時代末から大正時代に鉄筋コンクリート造という新しい技術が伝えられ、遠藤於菟、本野精吾らによって装飾の少ないモダニズムの先駆的な作品が造られた。
一般に日本の近代建築運動の始まりは山田守・石本喜久治・堀口捨己らの分離派建築会に置かれる。当時の建築界では鉄筋コンクリート造等の構造技術的な側面に注目が集まる一方、折衷主義的な建築観が主流であり、装飾のない建築は評価されなかった。こうした中、建築が芸術であることを主張し、過去の様式や装飾を否定した新しい造形を試みた分離派建築会の作品には、ドイツ表現主義の影響が見られる。
旧式な折衷主義とモダニズムの対立として象徴的な例とされたのが帝室博物館の設計コンペで、日本風の瓦屋根を乗せた渡辺仁の案が当選し、ル・コルビュジエ張りの前川國男の案は敗れた。後に前川自身が「あの案で建てられていたら、自分は顔を上げて上野を歩けなかっただろう」といった言葉を述べているように、渡辺案より前川案が優れていたとは言い切れない。それはともかく、1930年代半ばには、建築雑誌に紹介される作品もモダニズム建築が主流になっていった。
第二次世界大戦後は、モダニズムの旗手として前川國男や丹下健三らが建築界をリードした。また、日本の数寄屋建築(桂離宮など)とモダニズムの近親性が論じられた。これは柱と梁で構成される日本の伝統的建築と、煉瓦や石を積み上げて造る西洋の建築を対比し、前者がモダニズムの理念と適合しているとするものである。
このように日本においては、モダニズム建築の理念が第二次世界大戦による中断を含みながらも急速に普及し、過去の歴史様式をまとった建築は否定されるようになった。この背景には、戦争の激化とともに物資が乏しくなったため、また戦後になると戦災から一刻も早く立ち直るため、とにかく時間をかけず廉価に建設することが社会的な要請として最優先され、職人が腕を振るって装飾を付けるようなことは無意味であり無駄だと考えられたこと、また海外及び日本の建築雑誌に紹介されるのはモダニズム建築ばかりであったことなどが理由として挙げられる。しかし、ヨーロッパでもアメリカでも歴史的建造物は大切にされており、日本の戦災復興、高度経済成長、バブル経済の過程の中で多くの名建築や伝統的な街並みが失われ、モダニズム建築の亜流が都市を埋め尽くし、個性のない街並みばかりが生れる結果になった。一方、昭和初期のモダニズム建築にも建て替えの時期や、超高層ビル建設のための取り壊しの危機が迫っており、良質なモダニズム建築も多く失われることが危惧されている。
[編集] 日本の代表作品
- 三井物産横浜支店(遠藤於菟、1911年)
- 西陣織物館(本野精吾、1915年)
- 旧山邑家住宅(フランク・ロイド・ライト、1924年)
- 自邸(レーモンド、1925年) 現存しない
- 東京中央電信局(山田守、1925年) 現存しない
- 白木屋(石本喜久治、1928年) 現存しない
- 住友ビルディング(長谷部鋭吉、1930年)
- 大阪ガスビルディング(安井武雄、1933年)
- 東京中央郵便局(吉田鉄郎、1933年)
- 同潤会江戸川アパート(同潤会、1934年) 現存しない
- 黒部川第2発電所(山口文象、1935年)
- 自邸(土浦亀城、1935年)
- 交通博物館(土橋長俊、1936年)
- 宇部市渡辺翁記念会館(村野藤吾、1937年)
- 若狭邸(堀口捨己、1937年)
- 鎌倉近代美術館(坂倉準三、1951年)
- 広島平和記念公園(丹下健三、1952年)
- 世界平和記念聖堂(村野藤吾、1954年)
- 日本真珠会館(光安義光、1952年)
- 日本相互銀行(前川國男、1952年)
[編集] モダニズム建築の評価
モダニズム建築の良さは、一般に理解されにくい。例えば、「ミースのシーグラム・ビルやSOMのレバー・ハウスは、デザイン的にも機能的にもきわめて優れたモダニズムの超高層建築であるが、その優れた点をきちんと理解していないその後の建築家らが、表面的な物真似をして、平凡で粗悪な、四角い箱というだけの無味乾燥な超高層建築を作り続けたために、モダニズム建築は誤解され、批判ばかりを助長する結果となった」というような言い方をされることがある。これは、おそらく正しいことを書き記しているのであろうが、素人には、十分に理解できないところがある。その理由として、モダニズム建築のよさ、または、よいモダニズム建築とそうでないものとの違いを、単なる表層に限ることなく、機能や思想まで含めて、具体的に、具体例をもって、示さないからである。したがって、感覚的にしかモダニズム建築の良さが理解できない面があり、「この作品は、とても端整である」といったイメージの評価や抽象的な評価に留まることがある。この点については、建築家でさえ全ての点を理解できないことがあるのだから無理もないとする意見がある一方で、モダニズム建築の優れた点を素人にも判るレベルで具体的に示す努力を怠ってきた建築家や建築評論家への批判もある。
かつての「モダニズム建築の旗手」たちが設計した建築は既に築後数十年が経過して老朽化が進み、今日の目から見ればさすがに時代性を感じさせており、機能的にも不十分な点が見られる。「機能主義の建築は機能を全うしたら存在意義はない」という見方もあるが、モダニズムをも歴史の一つとして捉え、その保存を論じる必要性が問われている。ヨーロッパでは近代建築運動自体を歴史的に評価する見方が支持されているが、日本では今後の課題として残されている。