山本喧一
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山本 喧一のリングネームで活動する山本 健一(やまもと けんいち 1976年7月11日 - )は大阪府出身の総合格闘家・プロレスラー。通称ヤマケン。
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[編集] 来歴
山本の幼少時代は極めて不遇で、本人が語るところによると、両親が離婚し、預け先での執拗な虐待を受けた。虐待の傷跡は、山本の体に今もなお残っているという。
小学校時代は喧嘩に明け暮れ、手の付けられなかった山本であるが、中学時代に前田日明の自伝『パワー・オブ・ドリーム』を読んだことから空手を始める。プロレスラーになる前は、正道会館の内弟子を務めていたこともある。
その後入門したUWFインターナショナルでは高山善廣、安生洋二と「ゴールデン・カップス」を組み活躍。Uインター解散後は後継団体のキングダムを経て、リングスに移籍。当時のリングスのエース田村潔司にガチンコマッチを要求し、物議をかもした事もあった。その後検査で頭に腫瘍(良性)が発見され、安全面での問題が出てきた事が理由でリングスを退団する事になる。
格闘技ジム「パワー・オブ・ドリーム」を設立し、ジム経営と並行して、天下一武闘会さながらの台上で戦い、素手でのパンチを認めた総合格闘技トーナメント「タイタン・ファイト」、クラブでDJプレイやライブとともに総合格闘技の試合をし、山本自身が賞金首となってプロ・アマ問わず挑戦を受けるコンセプトの「クラブ・ファイト」を主催するが、スポンサーが離れたことで活動停止状態になる。さらに追い打ちをかけるようにジムが閉鎖。
しかし山本は格闘技から引退する事は考えておらず、現在も格闘家としての活動を続け、PRIDEなどに参戦している。
現在はアメリカのロサンゼルスを拠点としている。
2006年6月3日にアメリカの総合格闘技大会「MFC」に出場。カリーム・エリントンと対戦したが、KO負けを喫した。
[編集] TIPS
- 2001年12月に、須藤元気とリングスのリングで試合を行ったことがある。山本の通常体重は85kgであるが、この試合のために苦しみながらも75kgにまで減量してきた。さらにこの試合では山本が保持していた「UFC-JAPAN」(UFCの認定タイトルではなく、現在活動停止中のUFC-JAPANが制定したベルト)のベルトが賭けられた。試合は裸絞めで山本が敗北し、ベルトは須藤に奪われた。
- また、「ZST」、「HERO'S」で活躍する所英男は「パワー・オブ・ドリーム」時代の弟子に当たる。ジムを閉鎖した事によりその関係は途絶えてしまったが、所は「今でも山本さんを尊敬しているし感謝している」と述べている。
[編集] 人物
- 総合格闘家であるが立ち技にも適応でき、ムエタイの試合に出場し勝利を収めるほどである(現在、WPMFヘビー級4位)。総合格闘技での試合においても、ムエタイ・キックボクシング用のトランクスを着用し、ムエタイ式の構え方をするなど、他のファイターには無い個性的な一面を持つ。
- 話が長いことで有名(桜庭和志が自著『ぼく。』の中で証言している)。