岡崎財閥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岡崎財閥(おかざきざいばつ)は、明治27年に神戸の岡崎藤吉38才の時、 英国船主から中古貨物船を購入し大洋丸と命名して、 個人経営の岡崎汽船を名乗り船舶業を開始したのが始まりである。その後保険業、金融業へと拡大して財閥を形成した。
岡崎家は本来、土佐の出で、明治維新後、新政府の役人になった元土佐藩士岡崎真鶴が、飾磨(しかま)県大参事となって兵庫魚崎の地に移ってきたところに始まる。岡崎真鶴は神戸に留まり、明治20年の神戸・下関間の山陽鉄道の創業に尽力したり、晩年、国立第三十八銀行の頭取に推されて就任するなど、兵庫の実業界に身を投じた。真鶴には跡取りの嗣子がなかったため、当時兵庫県庁に勤務していた28歳の石丸藤吉が見出され婿養子として迎えられ岡崎家の人となった。
岡崎藤吉は、安政3年(1856)佐賀藩士・石丸六太夫の末子に生まれた。10歳で明治維新を迎え、東京に出て開成学校(東京大学の前身)に学ぶ。23歳で卒業して兵庫県庁に勤務した。婿養子となった藤吉は岡崎家の存亡を肩にかけて立ち働いた。しかし、官吏としての将来は知れている。あっさり官吏を辞めると武庫郡四ヶ村(魚崎、横屋、青木、西青木)の村長となった。この間、日刊「神戸日報」を買収して経営に参画したのが実業界入りの第一歩。
単葉鉄道、三十八国立銀行の取締役にも就いたが、とりわけ関係が深いのは明治19年、摂洲灘興業と酒屋銀行設立に伴う取締役就任であった。
摂洲灘興業は、灘五郷でできる清酒を船積みして東京方面へ送る海運業。酒屋銀行は、酒造家が東京の問屋から代金を回収するまでの運転資金を融通していた。しかし、いけると踏んだ酒屋銀行の方は見通しの甘さで失敗した。そのころ東京送りの酒は、問屋が預り証を振り出し、荷主(酒造家)が裏書して銀行に割り引いてもらい、さらに銀行が裏書して正金銀行にさし出す、すると無制限に融通してくれた。酒屋銀行にすれば、間違いなく儲かる話。事実、手形金融によって急速に、膨張した。ところが問屋の方は掛売り代金の回収が思うようにいかない。苦し紛れに不渡り手形を乱発したため、酒屋銀行はお手上げ。
藤吉はあるだけの手形を正金銀行と第一国立銀行に再割して、その金で預金を払い戻し店を閉じた。 破産である。この際、破産の災いが岡崎家に及ぶことを恐れて戸主を娘のとよに譲り、藤吉は別居。関係した役職をすべて辞任したが、この失敗が、後の藤吉にとって大きな財産をもたらした。一つは整理のために派遣されてきた小泉信吉(信三の父)と知り合ったこと、一つは二度と苦杯は飲まぬ、というド性骨を植えつけたことである。
打撃から藤吉を立ち直らせたのは、海である。明治27年、海運業を始めることを思い立ち、まず知り合いの兵庫の回船店主・片野久左衛門を頼った。日参して三拝九拝、無担保で金を借りた。これを頭金として船購入のメドをつけた。次いで酒屋銀行のころから懇意だった灘商業銀行の 辰馬吉左衛門に、やはり担保なしで5万円借りた。5万円といえば大金である。この時、藤吉は「この首を担保に」と生命がけで口説いた、という伝説を残している。
その金でイギリス船ニンポー号(1,270総トン)を購入、「太洋丸」と名づけた。同時に栄町通三丁目に事務所を開設。主として北海道と内地間の魚肥、穀類の海上輸送に当った。回船については摂洲灘酒屋興業会社(参事役)時代の経験で、コツはつかんでいた。新たに天津丸、八重丸を購入したところへ同年7月、日露戦争勃発。海運界は軍需景気にわき立った。 藤吉は、このチャンスを確実にものにして岡崎汽船の地固めを終えた。これが岡崎財閥の第一歩になった。
徐々に、荷主を拡げて船腹を増し、日清戦争の当時は阪神一円に聞こえた実業家となり、岡崎汽船のほか、義父が創業に参画した山陽鉄道の重役にもなっていた。さらに、日露戦争、第一次大戦と、海運界の活況に乗じて巨利を博し、しかもその最高潮時にあって、後日の景気反動・低迷を見事に予測、金融、保険へと事業を転換する。藤吉は大正6年に神戸岡崎銀行 (後の神戸銀行) を創設しその頭取となり、 又神戸海上運送火災保険会社(のちの同和火災海上保険)の社長も歴任し、 更に同14年には貴族院議員に選出されて国政にも参画し、 神戸財界の雄と呼ばれた。
だが、この岡崎藤吉にも嗣子がなかった。そこで、一人娘の婿養子に迎えられたのが、甥である石丸忠雄であった。岡崎忠雄は、若くして理財の道に長じ、養父なきあと、神戸岡崎銀行頭取、神戸海上火災会長、神栄生糸社長などを務め、昭和11年合併により誕生した神戸銀行の会長に就任。また、神戸商工会議所会頭にも推され、神戸経済界をリードした。
そして、忠雄になってようやく男子に恵まれた。しかし、一男一女であったため、長男真一が保険を、銀行は長女(妹)の婿養子に迎えた忠(ちゅう)が、引き継ぐという二頭体制をとった。
岡崎真一は昭和19年、神戸海上運送保険を改組し、同和火災海上として社長になった。財界のみならず、参議院議員となり政界に於いても確固たる位置を占め、昭和30年秋には神戸商工会議所会頭にもなり、さらに日本商工会議所副会頭も務めた。
岡崎忠は、昭和22年、神戸銀行頭取となり、以来20年間その座にあり、多難な戦後の銀行経営に取り組み、都市銀行としての形態を整えた。地元神戸の多くの公職にもつき、さまざまな財界活動を行った。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 日本の財閥・コンツェルン | スタブ