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岡野俊一郎 |
名前 |
愛称 |
|
カタカナ |
オカノ シュンイチロウ |
ラテン文字表記 |
OKANO Shunichiro |
基本情報 |
国籍 |
日本 |
誕生日 |
1931年8月28日 |
出身地 |
東京都 |
選手情報 |
代表歴 |
キャップ |
1 |
得点/失点 |
0 |
|
■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
岡野俊一郎(おかの しゅんいちろう、1931年8月28日-)は、東京都出身の日本の元サッカー選手・サッカー監督。日本サッカー協会の元会長であり、現在は名誉会長である。実家は和菓子の老舗「岡埜栄泉」。
[編集] 経歴
[編集] 東京オリンピック・メキシコオリンピックでの活躍
岡野俊一郎は、プレイヤーとしての経験は高校(戦前の学制では中学にあたる)・大学での経験しかないが、長年日本代表に参加し、コーチとしての戦績は華々しい(東京五輪:ベスト8、メキシコ五輪:3位)。これについては彼の東大時代の人脈が大いに生きている。
当時の日本代表は、1960年からのデッドマール・クラマーによる技術指導の影響により、一定の技術水準(とはいっても、欧州・南米の一流国から見れば下手であるが)は得ていたが、戦術や敵の情報に関しては不十分であった。しかし、岡野は東京大学在学時の友人に商社勤務の者が大勢おり、海外勤務の友人から海外のサッカーのビデオや雑誌を入手し、敵の戦術解析、モダンサッカーの戦術研究を熱心に行なった。
当時の監督の長沼は、ベンチで隣に岡野を座らせるために、選手登録を一名抹消(ベンチに入れる人数には制限があり、コーチ陣・選手合わせて一定の数にしなければならない)したほどである。クラマーの指導、選手たちの努力もあったが、岡野の研究も日本の快挙に大きく貢献したと言える。
当時メダル獲得の期待が全くかけられていなかったサッカーは、メキシコへ派遣できる選手の登録人数を削減されてしまった。これに最も強く反対した一人が当時コーチであった岡野俊一郎であったが、JOCの決定は覆せない。そこで、選手が故障した場合を考えて、もしもの時の「最後の一人」として選手登録をしたのだった。結果として(日本側登録では)「コーチ」でありながら銅メダル獲得という珍しい事になってしまったのである。
[編集] 所属クラブ
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 1試合 0得点(1955)
- 国際Cマッチ 4試合 0得点(1955)
年度 |
国際Aマッチ |
国際Bマッチ |
国際Cマッチ |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
1955年 |
1 |
0 |
0 |
0 |
4 |
0 |
通算 |
1 |
0 |
0 |
0 |
4 |
0 |
[編集] 関連項