島津貴久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島津 貴久(しまづ たかひさ、永正11年5月5日(1514年5月28日) - 元亀2年6月23日(1571年7月15日))は戦国時代の薩摩・大隅の戦国大名。戦国大名としての島津氏の中興の祖である島津忠良の嫡子で島津氏15代当主。幼名は虎寿丸、又三郎。三郎左衛門尉。官は修理太夫、陸奥守。室は入来院重聡の女、肱岡氏(後述家久の母)、肝付兼興の女。子に義久、義弘、歳久、家久。
薩摩島津氏の分家、伊作家・相州家当主の島津忠良の長子。永正11年5月5日(1514年5月28日)、田布施亀ヶ城にて生まれる。大永6年(1526年)、島津宗家14代当主島津勝久の養子となって家督を継承した。有力な分家でありかねてから島津宗家の家督を狙っていた薩州家の島津実久はこれに不満を持ち、忠良・貴久親子を攻撃。貴久は鹿児島・伊集院の地を奪われている。さらに実久は前守護の勝久を担ぎ上げたため、貴久は離縁される。天文2年(1533年)、忠良・貴久は反抗を開始。同7年(1538年)、実久を降伏させ抗争に勝利し薩摩半島を平定。名実ともに守護の座についた。
その後は父や兄弟、四人の子とともに薩摩・大隅の統一に奔走。永禄9年(1566年)、剃髪して長子の義久に家督を譲り、自らは伯囿と号し隠居する。元亀2年(1571年)、大隅の豪族である肝付氏との抗争の最中に死去。
島津家は室町時代から明や琉球と交易をしており、貴久も琉球王と修好を結んだりするなど外交政策にも積極的に取り組んだ。鉄炮が種子島氏より献上されると数年後には実戦で利用している。天文18年1549年に来日したフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教許可を出している。しかし寺社や国人衆の反対が激しかったことや、期待したほどに南蛮船も訪れなかったことから布教を禁止している。
貴久は悲願の旧領三州(薩摩、大隅、日向)の回復こそ果たせなかったが、彼の遺志は息子達に受け継がれていた。義久は翌年には日向の伊東氏を木崎原で撃破。さらに次の年には肝属氏を服属させ、島津家は薩・隅・日三州の太守としての地位を確立させている。後に九州制覇を成し遂げた戦国大名島津家の基礎を形成したという意味で、父の忠良とともに「中興の祖」と並び称されている。
|
|
|