川路聖謨
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川路聖謨(かわじとしあきら、享和元年4月25日(1801年6月6日) - 慶応4年3月15日(1868年4月7日))は、江戸時代末期の旗本。代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男、母は日田代官所手付の高橋誠種の娘。官位:従五位下左衛門少尉。号は敬斎。幼名は弥吉。母方の従兄弟に徳川幕府最後の西国郡代の窪田(蒲池)鎮克がいる。正式な名のりは源聖謨(みなもと・の・としあきら)。
[編集] 生涯
1801年(享和元)、豊後(大分県)日田に生まれる。1812年(文化9)、12歳で小普請組の川路三佐衛門の養子となる。翌年元服して萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。
その後、勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏からスタートし、支配勘定、御勘定をへて、寺社奉行吟味物調役として寺社奉行に出向時代仙石騒動を裁断し、この一件によって勘定吟味役に昇格、その後、佐渡奉行をへて、幕府老中水野忠邦時代の小普請奉行・普請奉行として御改革に参与。 (この頃、名を萬福から聖謨に改む) しかし、忠邦が天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷された。奈良奉行時代には行方不明となっていた神武天皇陵の捜索を行って『神武御陵考』を著して朝廷に報告し、後に孝明天皇が川路の報告を元に神武天皇陵の所在地を確定させたと言う。その後、大坂東町奉行をへて、1852年・公事方勘定奉行に就任。同時に、御家人から旗本に昇格し、家禄も200俵の蔵米取りから500石の知行取りに改められた。翌1853年(嘉永6)、ペリー艦隊来航に際し開国を唱える。また同年、長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉を、大目付格鑓奉行の筒井政憲とともに担当し、1854年に下田で日露和親条約に調印。
1858年(安政5)には堀田正睦に同行して日米修好通商条約を調印する。井伊直弼が大老に就任すると一橋派の排除に伴い西丸留守居役に左遷され、更に翌年の8月27日にはその役も罷免されて隠居差控を命じられる。1863年(文久3)に勘定奉行格外国奉行に復帰するも、外国奉行とは名ばかりで一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満があったようで、病気を理由としてわずか4ヶ月で役を辞する。引退後は、中風による半身不随・弟井上清直の死など不幸が続き、1868年(明治元)に勝海舟と新政府側の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定した報を聞くと、割腹した上にピストル自殺を行う、享年67。
[編集] 経歴
※日付=旧暦
- 1801年(享和元年) 生まれ
- 1809年(文化6年) 小普請組川路三左衛門の養子に
- 1827年(文政10年) 勘定組頭格寺社奉行吟味物調役に就る。
- 1835年(天保6年) 仙石騒動発生。寺社奉行脇坂安董を助け事件を裁判し、功績により11月28日、勘定吟味役に昇格
- 1840年(天保11年)6月8日、佐渡奉行に異動。
- 1841年(天保12年)6月12日、小普請奉行に異動。
- 1843年(天保14年)10月10日、普請奉行に異動。
- 1846年(弘化3年)1月11日、奈良奉行に左遷。
- 1849年(嘉永2年) 『神武御陵考』執筆
- 1851年(嘉永4年)6月24日、大坂東町奉行に異動。
- 1852年(嘉永5年)9月10日、勘定奉行・公事方(訴訟担当)に異動。
- 1853年(嘉永6年)6月3日、ペリー来航、7月18日、ロシア使節プチャーチン来航。露使応接掛となり長崎・下田で交渉。 10月4日、公事方から勝手方に異動。
- 1854年(嘉永7年)10月7日、下田へ出張。 その後、改元して安政元年12月21日、日露和親条約を調印
- 1855年(安政2年)1月18日、下田へ出張。 8月9日、禁裏御造営御用掛を兼帯。
- 1857年(安政4年)12月19日、朝鮮使節来聘御用を兼帯。
- 1858年(安政5年)1月8日、老中堀田備中守正睦の副役として上洛(同役に目付岩瀬肥後守忠震)。 将軍継嗣問題発生、一橋派の粛清が始まり、5月6日、西丸留守居に左遷。 6月19日、日米修好通商条約と貿易章程に調印。
- 1859年(安政6年)8月27日、西丸留守居を免職・隠居
- 1863年(文久3年)5月11日、外国奉行に就る。10月4日、老疾を理由に辞す。
- 1868年(慶応4年) 自殺 3月15日